気功のひろば

ブログ

2020.09.24

意識とは時間の産物である

The Book of Life
9/24のテーマは
The Mind Is Result of Time

以下、天野の訳です。
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意識は常に影響を受けていて、
ある特定の主義や主張について四六時中考え続けています。
以前は、組織宗教のみがあなたの心を染めるものでしたが
今は政府が大きく取って代わってその役を果たしています。
彼らは、あなたの意識を型にはめ、コントロールしたいのです。
表面上は彼らのコントロールに抗することができます。
あることがらについて何かの意見を言うことが表層ではできますが、
表層下、深い潜在意識の中では、時間、伝統のすべての重みがのしかかっていて、あなたをある特定の方向へ駆り立てるのです。
意識的な心はある程度のコントロールと方向付けをできるかもしれませんが、でも無意識下では、野望、解決していない問題、抑えがたい衝動、迷妄、恐怖が待ち構えていて、心をドキドキさせ、あなたを駆り立てています。

こうした心の全貌は、時間によってもたらされたものです。
完全な悟性を働かせずに次々と受容してきた全てのこと、
葛藤と順応が生み出したものです。
ですから、私たちは矛盾した状態で生きているのです。
私たちの生活は終わりのない葛藤です。
私たちは不幸で、幸せになりたい。
暴力的であって、非暴力という理想の実践に励んでいます。
だから、葛藤が続くのです。心の中は戦場です。
私たちは安全を求めています。
心の中、奥深くでは、そんな安全なんていうものはどこにもないということをわかっていながら。

真実はこうです。
私たちは安全はどこにもないという事実と向き合いたくない。
したがって、私たちはいつも安全を追い求めているのです、その結果生じる安全ではないという恐怖と共に。

2020.08.21

即時の作用

The Book of Life
8/21のテーマは
Immediate Action

以下、天野の訳です。
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あなたが何かとふれあっている時、
妻と、子供と、空と、雲と、何らかの現実と、
思考がそこに紛れ込んでくると、その瞬間にふれあいを失います。
思考は記憶から生じます。記憶はイメージです。
思考を通じて見ていることになれば、
観察者と観察されるものとの間に、分離が生じるのです。

このことは深く深く理解しなければなりません。
観察されるものと観察者とが別々になってしまうと、
もっと体験したい、もっといろいろなことを感じたいと、
絶え間なく追求し、欲し続けるようになります。

観察者、つまり、さらなる体験を求め、
検閲官として、評価し、判定し、非難する、独立した存在となり、
あるがままの全存在と、直接的に何のつながりもなくなってしまうのです。

あなたが痛みを、身体的な苦痛を感じる時には、直接的な知覚があります。
痛みがあるだけで、痛みを感じている観察者はいません。
観察者が存在しなければ、即時の作用がそこにあります。
何か考えて行動するのではなく、
直接に身体が関与するから、痛みにはただ作用のみがある。
痛みはあなた自身であり、ただ痛みがそこにあります。

このことが完全に、深く理解され、はっきり分かり、解き明かされ、深く味わわれないかぎり、
全面的に把握されない限り、生活の全ては葛藤となるでしょう。
相反する欲望と欲望とがぶつかり合い、
こうしなければということと、あるがままの自然との間の矛盾に苦しむのです。

あなたにはできます。
唯一、「観察者として見ているのかどうか」ということに気づいていることによってのみできるのです。
そうして、花を見て、雲を見て、そのほかの何かを見るのです。

2020.07.27

自然に生じる覚醒

The Book of Life
7/27のテーマは
Spontaneous Comprehension

以下、天野の訳です。
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「この苦しみの原因は何か、見せてくれ」などと決して言うものではありません。。
それは、努力を強いても、日々の修練でも、わからないのです。

興味を持って、自ずと生じる覚醒を通じて、見なければなりません。
すると、私たちが、苦しみや痛みと呼んでいるもの、
避けようとしているものや抑制が、全て無くなっているのに気づくでしょう。

物事との関係を「自分以外のものとのつながり」だと誤認しなければ、問題は生じません。
問題は「自分ではない何か」との関係が築かれたその瞬間に生じます。

苦しみを外的なものと捉えてしまう。
例えば、私が兄弟を亡くしたり、お金がなかったり、あれこれの
外的な理由で苦しんでいるとすると、
その外側の事象との関係が構築されますが、それは架空のものなのです。

もし、私が、そのものだとしたら。
その事実を見るならば、
全ての物事は変化し、異なった意味合いを持つようになります。

そこには、完全に感覚を開いて、全体を分け隔てなく感じている状態があり、
くまなく全てが認識されると、それは理解され、消失します。
ゆえに、怖れはなくなり、
悲しみという言葉は存在しなくなるのです。

2020.06.17

全体を見る

The Book of Life
6/17のテーマは
Seeing the Whole

以下、天野の訳です。
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あなたはどのように、木を見ますか。

木全体を見ていますか。

全体として見ていないのなら、全く木を見ていないのです。
そこを通りかかり、「ここに木がある。なんて素晴らしい。」
「これはマンゴーの木だ」「よく知らないが、タマリンドの木かもしれない」と言うかもしれません。
しかし、そこに立って見ている時・・私は実際のこと、事実を話しているんですよ、
あなたは決してその全てを見ていない、そしてもし木の全体を見ていないのなら、
あなたはその木を見ていないのです。

気づきについても同じです。
木を見るのと同様、心の挙動全体を見ていないのであれば、あなたは気づいていないのです。

木は、根、幹、大小様々の繊細に伸びていく枝々、
枯れたりしおれたり、あるいは青々とした、虫に食われた、醜い、散っていく葉っぱ、
実、花などでできています。
これら全てを、一つのものとして見ている時、あなたは木を見ているのです。

同様に、そうした見方で心の働きを見ていくと、
その気づきの中には、非難する心、承認や否定、葛藤や虚しさ、絶望と希望、失望などの感覚があり、
気づきは、それら全体に行き渡っていて、ただ一部分だけということはないのです。

そう、この本当にシンプルな感覚で、心を感じていますか。
さながら、絵の全体を見るように。
絵の隅っこの部分だけを見て、「この作者は誰」とは言いませんね。

2020.05.06

あらゆる情動に対して死すべし

The Book of Life
5/6のテーマは、
We Must Die to All Our Emotions

以下、天野の訳です。
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「Emotion」情動とは何を意味するのですか?
感覚のことですか?
反応、感覚の応答ですか?
憎しみ、信心、愛している感覚、同情など、全て「情動」です。
愛や共感などはポジティブなもの、
一方憎しみのような情動はネガティブだと断じて、なくそうと努力します。
愛と憎しみは反対ですか?
愛とは、記憶に基づいた情動、感覚や感情ではありませんか?

愛とは、何を意味するのでしょうか。
もちろん、愛は記憶ではありません。しかしほとんどの方にとっては、愛=記憶です。
だから、愛を知ることがとても難しいのです。
妻を、夫を愛していると言いますが、それはどう言う意味ですか。
あなたを喜ばせてくれるもの、
自分と一緒にいてくれて、私が所有していると思っているものを
愛しているのではないですか?
どうぞよくお聞きください、これらは事実です。作り話ではありません。
目を丸くしないでください。

私たちが愛し、愛していると思っているのは、
「私の妻」「私の夫」というイメージやシンボルであり、
生きている個々人ではないのです。
妻を、夫を、全く知っていないのです。

「知る」と言う意味が、「認識」を意味しているのであれば、
その人のことを決して知ることはできません。
「認識」は「記憶」に基づいています。
苦楽の記憶、とても大事にしてきたり苦しんできた記憶、
自分が所有し、執着してきたものの記憶・・。
恐れ、悲しみ、寂しさ、絶望の暗影があるなかで
どうして愛することができるでしょうか。
野心的である人が、どうして愛することができるでしょうか。
どんなに公明正大であっても、私たちは皆何かを熱望しています。

愛が何であるかを見出すためには、
過去に対して死ななければなりません。
全ての情動に対して死ななければなりません。
良い悪いに対して死ななければなりません。

有毒なものに対してそうするように、努力なしに全てを手放すのです。
つまり、毒だとわかってしまえばいいのです。

2020.04.24

感覚を超えた美しさ

The Book of Life
4/24のテーマは
Beauty Beyond Feeling

以下、天野の訳です。
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熱い心なくして、どうして美が存在できるでしょうか。
絵や写真、建築物、女性の肖像、そうしたものの美しさについて話しているのではありません。
そうしたものには、それぞれ固有の美しさがあります。
人間によって手を加えられたもの、例えば、聖堂、寺院、絵画、詩、彫像…。
それらは美しいかもしれないし、美しくないかもしれません。

そんなことではなく、
熱い心がなければ、はっきり気づくことも、理解することも、知ることもできない、
感覚も思考も超えた美が存在するのです。
「熱い心」という言葉を誤解しないでください。
これは、醜い言葉ではありません。
マーケットで購入できるものでも、ロマンチックに語り合うものでもありません。
感情や感覚とは、全くもって関係のないものです。
きちんとした、立派な何かでもありません。

「熱い心」は、あらゆる偽を滅する炎です。
そして、わたしたちは常に恐れています。
その炎が、私たちが可愛がり、大切だと呼ぶものを
食い尽くしてしまうことを。

2020.03.09

執着とは、自分を欺くこと

The Book of life
3/9のテーマは
Attachment Is Self-Deception

以下、天野の訳です。
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「私たち」とは、私たちが「所有しているもの」です。
「私たち」とは、私たちが「執着している何か」です。

執着には微塵の貴さもありません。
知識への執着は、その他の快楽的耽溺となんら違いはありません。
執着とは、自己陶酔です。それが最低であろうと最高のレベルであろうと。
執着とは、自分を欺くことです。
自らの虚しさからの逃避です。

空虚さを埋め合わせるために、
多くのものがなければ私がなくなってしまうから、
執着している「もの」……財産・人々・考えが
いちばん重要になってしまうのです。

自分がなくなることへの恐れが、所有に向かわせるのです。
そして恐れは幻想を生み出し、様々な結論につなぎとめます。
物質的なものであれ、観念的なものであれ、そうした結論は
智慧の結実、すなわち自由を妨げます。

自由とは、ただ真実のみが存在しうる状態です。
この自由がなければ、本当の智慧が、狡猾な「まやかしの賢さ」にすり変わってしまうのです。
まやかしの賢さは、いつも錯綜し破壊的です。
この自己防衛的な、嘘の賢さが執着を作り出すのです。

執着が苦しみを引き起こす時、
無執着を求め、放棄することの自尊と虚栄にうつつをぬかすこともまた、嘘の賢さです。
「まやかしの賢さ」の働きを悟ることが、智慧の始まりなのです。

2020.02.17

思考から自由な行動

The Book of Life
2/17のテーマは
Action Without the Process of Thought

以下、天野の訳です。

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観念とは、どういうことですか。
そう、思考していることですね。

観念は、思考的、精神的な働きのことです。
思考はいつもある種の反応です。
意識的にせよ、無意識的にせよ。
思考は言語的なプロセスで、記憶に基づいたもの。
時間のプロセスなのです。

ですから、思考に基づいて行動する時、
あらかじめ決められた、周囲と関係のない行動にならざるを得ません。
観念と観念は対抗しなければなりません。
観念は観念によって支配されなければなりません。
行動と観念の間には隔たりがあるのです。

では、観念なしに行動することは可能ですか。いかがでしょうか。
私たちは、観念がいかに人々を分け隔ててきたかを知っています。
既に説明しましたが、知識と信仰は本質的に分け隔てる特質があるのです。
信条が人々をつなぐとこは決してなく、常に人々を隔絶させてきたのです。
信条、観念、あるいは理想に基づいて行動するのなら、
隔絶され、分断されたものにならざるを得ないのです。

思考プロセスから離れて、自由に行動することは可能ですか。
思考とは、時間、計算、自己防衛、信仰の過程であり、
否定し、非難し、正当化するプロセスです。

もちろん、私同様、あなたにも必然的に訪れることでしょう。
観念から全く自由になって行動する。それはあり得ますか。

2020.01.27

静かな心、素のままの心

The Book of Life
1/27のデーマは
Quiet Mind,Simple Mind

以下、天野の訳です。

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自分自身に気づき、目覚めていくと、日々の行動全てが
私、エゴ、自我のおおいを取る方法になりますね。

自我は、とても複雑なプロセスです。
他者との関係、毎日の活動、どんな話をし、予測し判断するか、
どのように自他を非難しているのか。
そうした中だけで、自我は見出され
条件づけられた思考が明らかになります。

このプロセス全体に気づくのは、とても重要ではないでしょうか。
瞬間瞬間の真実に気づくことによってのみ、
時間を超えた、永遠のものを見いだすことができるのです。
自分に対する気づきがなければ、永遠はありえません。
自分を知らないのなら、永遠とは、
単なる単語、象徴、憶測、教義、信仰でしかありません。
心はその幻想の中へ逃げ込むのです。

しかし、日々の多種多様な活動の中で
「私」というものを理解し始めると、
その中で、はっきりとした覚醒が起こるのです。
何の努力も、名前も時間もないものがそこにあるのです。

けれど、永遠は、自分を知ることの報酬ではありません。
永遠なるものを追い求めることはできません。
心が永遠を獲得することはできないのです。
永遠は、心が静かな時にそこにあります。

心が静かであるのは、ただそのままである時、
何の蓄積もなく、責め、判断し、比較することのない時だけです。
真実を理解することができるのは、素のままの心だけです。
言葉、知識、情報でいっぱいになっている心ではありません。
分析し計算する心は、素のままの心ではないのです。

2019.12.27

創造しつつある精神

The Book of Life
12/27のテーマは、
A Mind in the State of Creation

以下、天野の訳です。
—————-

瞑想とは、
意識が寄せ集めてきた、あらゆるものをなくして
心を空っぽにすることです。

そうすれば、…
そうしたくないでしょうが、
そんなことはかまいません、ただ聞いてください。…

心にとてつもない空間があり、それが自由なのだと気づくでしょう。

ですから、ただ待っているのではなく、
一番始めに自由を希求する必要があります。
最終的に自由を手にするのだと。
仕事の中でも、人間関係でも、すべてのなすことの中に必ず、
自由の重要性を見出そうとしていくのです。
すると、瞑想は創造だと気づくでしょう。

私たちは、創造という言葉を軽々しく口にし、いともたやすく使います。
画家はキャンバスにいくつかの色を落とし、そのことにものすごく興奮します。
それは彼の自己満足であり、自己表現の手段です。
また、お金を稼ぎ名声を得るための商売ですが、彼はそのことを「創造」と言うのです。
画家たちは皆「創造」し、「創造的」画派がいくつもあるといいますが、
それらは「創造」と何ら関係がありません。
ある特定の社会の中で条件づけられた、意識的な反応でしかありません。

私がお話ししている「創造」は、全く別のことです。
心が「創造という状態」になっているということです。

そこに表現はあるかもしれないし、ないかもしれません。
表現ということ自体は、たいして意味のないことです。
創造には何の理由もいらないのです。

創造しつつある精神は、瞬間瞬間に、死し、生き、愛し、ただそこにある。
そのすべてが、瞑想なのです。

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