気功のひろば

ブログ

2018.08.02

真実とはそうあること

The Book of Life
8/2のテーマは
Truth Is a State of Being

以下、天野の訳です。

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真実へたどりつく道などありません。
そして、二つの真実はありません。
真実は、過去のことでも、現在にあるのでもありません。
時間ということを超越しています。
仏陀の、シャンカラの、キリストの真実を引用する人、
あるいはただ私の言うことを繰り返すだけの人は
真実を発見することはないでしょう。
反復は真実ではないからです。
反復は偽りです。
何かを分け隔てようとしたり、
排除しようとしたり、
結果や成果に関わることばかりを考えていたりする心が、
終焉したときに、ふと立ち現れてくるものが真実です。
その時だけに、真実はそこにあるでしょう。
努力しようとする心、
目的を達成するために自らを律しようとする心は、
真実を知ることはないでしょう。
目的は、心の投影だからです。
どんなに崇高な目的であったとしても、
心の投影を追いかけているのであれば、
それはある種の自己崇拝です。
自分自身を礼拝し、真実を知ることはありません。
心の全プロセスを知る時にのみ、
すなわち、何の葛藤も存在しない時にのみ、
真実は明らかになるのです。

2018.07.13

苦しみは必須のものか?

The Book of Life
7/13のテーマは
Is Suffering Essential

以下、天野の訳です。

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とってもたくさんの種類の、
いろんな複雑さを持った、様々な程度の苦しみがあります。

それは衆知のことです。
本当によく知っていて、生まれた瞬間から、墓場に崩れ落ちる瞬間まで、
その重荷を、この人生で間違いなく背負い続けるのです。

もし、これは避けられないことだと結論を下してしまうのなら
まったく何の答えもみつからないでしょう。
受け入れしまうと、そのことに対する探求は止みます。
さらなる探求の扉を閉ざしてしまうのです。
男の人へ、あるいは女の人へ逃避し、
酒や娯楽に逃避し、
ざまざまな形の権力や地位や名声に逃避し、
心の中の無意味なおしゃべりに逃避するでしょう。

すると、その逃避自体が最も重要なものになります。
あなたがそこへ逃れようとすることが、とてつもなく重要なことだと思い込んでしまうのです。
そして、悲しみの扉も閉じてしまうでしょう。誰もがたいていしてしまうことです。

では、あらゆる種類の逃避を止め、苦しみに立ち返ることができるでしょうか。
苦しみの解決をしようというのではありません。
肉体的苦しみは存在します。
歯痛、胃痛、手術、事故など、あらゆる種類の身体的な苦しみがあり、
それぞれの対処法があります。
将来の痛みに対する恐怖もあり、これも苦しみの原因です。
苦しみは恐れと密接に関わっています。
人生におけるこの二つの主要因を理解することがなければ、
思いやりを持つとはどういうことなのか、
愛するとはどういうことなのかを理解することは決してないでしょう。
思いやりとは、愛とは、……
そうしたことに関心を持ち理解しようとするのなら、
恐れとは何か、悲しみとは何かを、どうしても理解しなければならないのです。

2018.06.19

花開く思考

The Book of Life
6/19のテーマは
Let a Thought Flower

以下、天野の訳です。

———————-

「気づき」は、ある心の状態であり、
あらゆるものに対して生じます。

空を飛んでいく烏たち、
木に咲く花、
前に座っている人や、服の色合い、
そんな全てにあまねく気づいていくのです。
それには、はっきり見て、観察することが必要です。
葉っぱや幹の形を、
相手の頭の形や、何をしているかを。

あまねく広く気づいていて、そこから行動するということは、
つまり、自らの存在の全てに気づいているということです。

ほんの部分的な思考能力、
思考の断片、あるいは断片化された思考によって、
限定された思考にとらわれたまま、
それを元に経験をしているのであれば、
心の状態も、凡庸で、限られた狭いものになってしまうでしょう。

しかし、自らの存在の全体性に気づき、
あらゆる思考と感覚が目覚め、
そこに何一つ制限を加えず、
全ての思考と感覚を花開かせ、
そのうえで「気づいている」ということは、

ほんの限られた思考に基づく行動や集中、
制限されたその状態とは全くもって違います。

思考を花開かせ、感覚を開花させるには、
意図的な集中(concentration)ではなく、
自然にすっと気が集まること(attention)が必要です。

「花開かせる」とは、
「思考を自由にしてあげる」という意味です。
そして、あなたの思考や感覚の中で何が生じているのか、
何が起こっているのかを見るのです。

開花するものは、すべからく自由であり、輝きを持ち、
制限されざるものです。
どのような価値もそこに加えることはできません。
良いとか悪いとか
こうあるべきとか、こうあるべきでないなどと言うこともできません。
そんなことをしたら、思考の開花を抑制してしまいます。
とても深く、深く、このことを探っていってください。
そうすると、この「思考の開花」とは、
「思考の終焉」であることがわかるでしょう。

2018.06.02

二元性が葛藤を生む

The Book of Life
6/2のテーマは
Duality Creates Conflict

以下、天野の訳です。

————————

どのような葛藤も、
身体的、精神的、
また思考上の葛藤も、
全てがエネルギーの浪費なのです。

いがかでしょうか、
理解することも、そこから自由になることも、
とてもとても難しいですね。
私たちは、もがき苦しむように育ってきたし、
努力をするように育ってきたからです。

私たちが学校で第一に教わったのは、
「努力する」ことです。
その苦闘が、努力が、一生涯にわたって続いていくのです。

それはすなわち、こういうことです。

良い人であるために、あなたは、もがき苦しみ、
邪悪なものと戦わなければならない。
抵抗しなければならない。
きちんと制御しなければならない。と。

そう。学校でも、社会でも、宗教でも、
人はもがき苦しむように教育されているのです。

あなたは、こう言われるでしょう。

もし神を見出したいのであれば、
しっかり取り組まなければならない。
修練を積み、実践をしなければならない。
魂を捻じ曲げ、責め立てなければならない。
心も体も、否定し、抑圧するのだと。

これでは、決して神を見い出すことはできないでしょう。
あなたは戦って、戦って、戦わなければならないのです。
いわゆるスピリチュアルなレベルとかいわれるもののために。
そんなものは全くもってスピリチュアルでもなんでもありません。

そして、実際の社会の中では、
自身のために、家族のために何かを追い求めるのです。

そう、こうして、
どこでもかしこでもエネルギーを浪費しているのです。
エネルギーの浪費とはつまり、葛藤です。
「こうしなければならない」と「こうしてはいけない」という葛藤。
「こうでなければならない」と「こうあってはならない」という葛藤。

いちど二元的なものができてしまうと、葛藤は避けられません。
ですから、この二元性ということの全てのプロセスを理解する必要があるのです。

男と女、青と赤、光と闇、高い低い、そんなものが無いと言っているのではありません。
これらは事実です。
事実と観念を二つに分けていくような努力、
その中に、エネルギーの浪費があるのです。

2018.04.26

愛は、熱い心

The Book of Life
4/26のテーマは
Love, I Assure You, Is Passion

以下、天野の訳です。

——————————-

もし、熱い思いがなければ、敏感であることはできません。
「情熱」といった言葉を恐れないでください。

多くの宗教書や、宗教的な導師、教師、先達やその他みんなが、
「熱情を持つなかれ」と言うでしょう。
けれど、もし心に熱さがなかったら、
醜さや美しさに、葉っぱのささやきや夕焼けに、微笑や涙に
どうやって気付くことができるのでしょう。
全てを開け渡したような熱き思いなしに、鋭敏であることができるのでしょうか。

どうぞよく聞いてください。
また「どうすれば熱い思いが持てますか」などと質問しないでください。

良い職を得ようとしたり、貧乏人を蔑んだり、誰かを羨んだりすることに関しては、
みなさん充分に熱情的ですね。
でも、私がお話ししているのは、全く違います。

「愛する」という熱情です。
愛しているときには「私がない」。
「罪も裁きもない」。そういう状態になります。

性行為は正しいとか、間違っているとか、
これは良くて他の何かは悪いとか、いうことはありません。
そうした相反するものは、愛の中に全くありません。
愛の中に、矛盾対立するものは存在しないのです。

情熱なしに、どうして愛することができるのでしょう。
熱い思いを持たないで、どうして敏感でいることができるでしょうか。

敏感でいるというのは、あなたのすぐ隣に座っている方を感じるということです。
うす汚れていて、猥雑で、みすぼらしい町の醜さに気づくこと。
そして、川や海や空の美しさに気づくことです。

心の熱なしに、どうしてこれら全てに気づくことができるでしょうか。
笑顔に、涙に気づくことができるのでしょうか。
愛とは、まちがいなく熱情なのです。

2018.03.15

他との関係という鏡

The Book of Life
3/15のテーマは
Relationship Is a Mirror

以下、天野の訳です。

————————

そう、「他者とのつながり」だけが、
「私とは何か」を、明確にしていく。
違いますか。

関係性は鏡です。
その鏡の中に、そのままの私が写し出されています。

でもたいていは、自分を好きではないので、
ポジティブにしろネガティブにしろ、関係という鏡に写っている私を、
自分で正しくコントロールしようとし始めます。

つまり、他者との関係の中に、人に対する反応に何かを見つけ、それが嫌だと思う。
そして、嫌なこと、不愉快と受け取ったことを、修正しようとし始めるのです。

変えたいと思うこと自体、すでに、
「私はこうあるべき」というパターンを持っていることを意味しています。

「あるべき私」という思考のパターンを持った瞬間に、
「私とは何か」ということへの理解は消え失せます。

「私はこうなりたい」、または「こうなるべき、こうなってはいけない」というビジョン、
つまり「自分を変えたい」心が規範的なモデルを作ったその瞬間に、
他とのつながりのなかにあった、私というものへの理解が
全くなくなってしまうのです。

このことを理解するのは本当に大切です。
ここで、みんな道に迷ってしまっていると思うのです。

この瞬間に、与えられた関係性の中で、
「私とは、本当は何か」を知ろうとしないのです。

もし私たちが、自己成長というようなことのみに関わっていたとしたら、
自らを、そして、あるがままの自然を理解することなどできないでしょう。

2018.02.13

日々の新生に気づく

The Book of Life
2/13のテーマは、
Meeting Life Anew

以下、天野の訳です。

—————-
私たちのほとんどが熱心に受け容れ、
当然のように思っていること、
その一つは、信念の問題ではないかと私は思います。

信念を非難しているのではありません。
私たちがしようとしているのは、
「なぜ信念を受け容れるのか」を見いだそうとすることです。
もしその動機、受容する原因を理解できれば、
なぜそうするのかが判るだけではなく、
おそらく、信念から自由になることができるでしょう。

政治的な信念、宗教上の信仰、国家やその他様々なタイプの信念が
いかに人々を隔てさせ、争い、混乱、敵対を造り出してきたか、
誰もが知っているでしょう。
そのことは明白な事実です。

なのに、いまだに、私たちはそれらを諦めて手放そうとしません。
ヒンドゥーの信仰があり、キリストの信仰があり、仏教徒があり、
数限りない宗派や国々の信念、様々な政治的イデオロギーがあり、
みんなお互いに争い合い、あるものから別のものへと取り替えようとしています。

信念や信仰が人々を分け隔て、
お互いに相容れない世界を造り出しています。
これは、明らかですね。

では、信念や信仰なしに生きることは可能でしょうか。
信念や信仰との関係性の中で、自分自身についてよく調べる。
それができる時にのみ、可能となるでしょう。

この世で、信念や信仰無しに生きることはできますか。
信念を変えるのでも、ある信念を他の信念に変えるのでもなく。
完全に全ての信念から自由であり、
毎瞬間、新たに生きていることに気づくことが可能でしょうか。

瞬間瞬間、全てに新しいこととして出会う、
その能力を持つこと。
全ての条件付け、過去における反応もそこにはありません。
だから、自分というものと、そのままの自分との間の、
壁となり障害として働く累々積々とした影響もそこにはないのです。

結局のところ、これが真実なのです。

2018.02.07

愛がある時、自我はない

The Book of Life
2/7のテーマは、
When There Is Love,Self Is Not

以下、天野の訳です。

—————

真実、真理というものは、頭で認識するものではありません。

真理が訪れるためには、
信念、知識、経験、美徳、徳の追求
・・それは徳があることとは別のことですが、
これら全てが無くならなければなりません。

徳を追求しようと意識している高潔な人は、
決して、真実に出会う事はできないでしょう。
彼はとても礼儀正しいきちんとした人であるかもしれませんが、
真実の人、真実を悟った人とは全く違います。

真実は、その人に自ずと訪れたのです。
高潔な人は、正しくあろうとする人です。
正しくあろうとする人は、決して、何が真実かを知ることはできません。
彼にとっての徳とは、自我を覆い包むものであって、自我を強化するものです。
なぜなら、彼は徳を追い求めているからです。

彼が、「私は貪欲であってはならない」と言うのなら、
(無欲たらんとしながら)「貪欲でない」という彼の状態が、
自我を強化しているのです。

貧しくあることが、なぜそれほどまでに重要なのか。
その答えがここにあります。
この世の具体的な「もの」だけではなく、
信念や知識に関してもです。

現世的な「もの」を沢山持っていても、
知識や信念を沢山持っていても、
富める人は、闇以外の何ものも決して知ることはなく、
あらゆる害悪や苦悩の只中にあることになるでしょう。

しかし、
あなたそして私が、個々の一人として、
自我のふるまいの全てに気づくことができれば、
私たちは、愛とは何かを知ることになるでしょう。
これこそが、世の中を変え得る唯一の変容であることは、確かです。

愛は、自我ではありません。
自我は、愛を理解することはできません。
「私は愛している」と言ったとしても、
そのとたん、話しているその時、
そのことを経験しているその時に、
愛はそこにありません。

そして、あなたが愛を知った時、自我はそこにありません。
愛がある時、自我はないのです。

2017.12.16

本当の信仰

The Book of Life
12/16のテーマは
True Religion

以下、天野の訳です。

—————-

信仰とは何ですか。

信仰は、聖なる言葉を唱えることでも、
供養の形をなぞることでも、
他のどのような儀式でもありません。
ブリキの神像や、石の偶像を礼拝する中にも、
お寺や教会の中にも、
聖書やギータなどの聖典を読む中にも、
神や仏の名を繰り返し唱える中にも、
その他、人間によって造り出された
迷信の数々に従う中にも、信仰はありません。
それらは、信仰でも何でもありません。

信仰とは、
あなたが元々持っている純良なものに気づくことです。
そこには、川のような愛が生き生きとあふれていて、
とぎれることなくずっと働き続けています。
その流れの中に入ると、あなたはふと、
もはや何の詮索もない瞬間と出会うことになるでしょう。

そして、何かを見つけ、探そうとすることが止むと、
全く違った何かが始まります。

神を探し、真理を追求し、完璧な気持よさを求めることは、
生まれながらに持っている純良なものを引出すことでも、
謙虚さを深めることでもありません。
そうではなく、意識による発明品や幻惑するトリックの数々を
乗り越えた、向こうにある何かを求めていくのです。
その感覚を持ち続け、その中で生き、まさにそのものになる。
これが本当の信仰です。

自分で掘った小さな水たまりから抜け出て、
いのちの川の流れに飛び込むことだけが、道を開きます。
すると、その生命の潮流が、驚くような方法であなたを養うようになります。
なぜなら、あなた自身は何ひとつ自分の面倒をみなくてよくなるからです。

生命の潮流は、あなたをちょうどよいところへ運んでいきます。
あなたは「いのち」の一部なのですから。
そこにはもう、安心を確保しようという悩みはありません、
誰が何と言おうと、言うまいと、そうした問題は全くないのです。

生命の美しさとは、まさにこのことです。

2017.11.16

死の中に不死がある

The Book of Life
11/16のテーマは
In Death Is Immortality

以下、天野の訳です。

—————–

終りの中には、いつも新しい始まりがありますね。
ちがいますか。
死の中からのみ、新たな何かが生まれ出るのです。

私はあなたを安心させているのではありません。
これは信じるような何かでも、
そのことに対して考えをめぐらすことでも、
また、知的に検証して受け容れるような何かでもありません。
そんなことをしたら、ただ別の安心のよりどころを作り出すだけです。

それは、ちょうど今あなたが、
死後の再生を信じていたり、
(今の自分がそのまま)来世へ続いていると信じていたりすることと
何の変わりもありません。

しかし、現前にある事実は違います。
続いていくものは、生まれ変わることも再生することもありません。
ですから、日々死すことによって、再生があり、新生があります。
これが、不死ということです。

死の中に不死がある。
その死とは、あなたが恐れている死のことではありません。
過去において導き出された結論が死に、
記憶たちが死に、
経験たちが死ぬのです。

すなわち、これらは「私」という認識を作り上げてきたもの。
この「私」が、刻々と死ぬ中に、永遠があり、不死があり、
経験されるべきものがあります。
それらは、きっとそうなんだろうと思ったり、
こうなんですと教えてもらうようなことではありません。
それでは、転生や何かに関してあなたが今までやってきたことと同じです。

一瞬一瞬に終りがあり、新しい始まりがある。
もはや恐れはそこにはなく、あなたは未知に対して開かれています。
本当の真実とは、未知のものです。

死もまた、未知のものです。
しかし、
私たちは来世に続いていくのだとか、そうしたあらゆる馬鹿げた考えから、
死は美しいと讃えたり、何とすばらしいことだと言ったりすることには
何の真実もありません。
死を死そのものとして見ている、そこに本当の真実があります。
そう、終りとしてです。

終ることの中に、新しい始まりがあり、新生がある。
継続ではないのです。
継続するものは朽ちていきますね。
そして、自ら新生する力を持つものは永遠です。

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