気功のひろば

ブログ

2021.08.08

事実を悟る

The Book of Life
8/8のテーマは
Understand the Actual

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


これは、実はそんなに複雑ではないのです、
なかなか骨の折れることかもしれませんが。

お分かりのように、私たちは
現に生じていること、事実から始めてはいません。
今考えている、行っている、望んでいることではなくて
こうあるはずという予測、こうあるべきという理想、
そうした現実ではないものから始める、
そのために迷っているのです。

予測からではなく事実から始めるには、
細心の注意が必要です。
そして、どんな形の思考であっても、
事実に基づかないなら、心が乱れてしまいます。
だからこそ、私の中で、そして周囲で
実際に何が起こっているのかをはっきり見取ることが重要なのです。

もしクリスチャンなら、あなたはあるパターンに沿ったビジョンを思い描くでしょう。
ヒンズーでも、仏教徒でもムスリムでも、それぞれの異なったパターンに沿って思い描きます。
あなたが条件づけられた通りに、キリストやクリシュナを見ているのです。
どんな教育を受け、どんな文化の中で育ったかによって、ビジョンが決定していきます。
そのビションと、ある型の中で形作られた心と、どちらが現実のものですか。

ビジョンは、心の背景を形作っている特定の伝統の投影です。
投影されたビジョンではなく、こうした条件づけが現実で、事実なのです。
事実を理解することはとてもシンプルですが、
好き嫌いや、事実への非難、
事実に対する意見や評価によって、難しくなっているのです。
そうした様々な評価の形態から自由になることが、
事実を悟り、ありのままを悟るということなのです。

2021.07.06

とらわれのない幸せ

The Book of Life
7/6のテーマは
Happiness That Is Not of the Mind

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


私たちは、洗練に洗練を重ね、精細に精細を重ね、
楽しみから、また他の楽しみへと動いていくかもしれませんが、
その中心には全て「私」というものがあります。

楽しみながら、より多くの幸せを望む私、
幸せを探し、求め、そうなりたいと望んでいる私、
もがいている私、
どんどん磨きがかかっていく「私」…。
しかし、決して終わることがないのです。

そうした、あらゆる細かな形として現れる「私」が終わりを告げる。
その時にのみ、追い求めても得られない至福の状態、
忘我の境地、苦痛を伴うことも腐敗することもない、本当の喜びがあるのです。

経験し、観察し、思考している「私」という思考を
心が超えていくと、
朽ちることのない幸福が生じ得ます。

その幸福は、普通に使う意味での永遠ではあり得ません。
ところが心は、何らかの「存続し持続するもの」、
永遠の幸福を追い求めます。
この永続への欲望こそが、腐敗です。

非難することも、正しいとか間違いだということもなく、
生きているという過程そのものを理解できた時、
あなたのものでも、私のものでもない、クリエイティブな幸せが訪れる、そう思うのです。

クリエイティブな幸せは、太陽の光のようなものです。
もし、きらめく太陽をあなたの中に留めたいと願うならば、
それはもはや、明るくて暖かい、生命を分け与えてくれる太陽ではありません。

同様に、苦しいから、誰かを亡くしたから、成功しなかったから
といった理由で幸福を望むのなら、
その幸せは、単なる反応でしかないのです。

しかし、心が「私」を超越できるならば、
心にとらわれることのない本当の幸せがそこにあるのです。

 

2021.06.07

純粋に聞くことは、自由に解き放つこと。

The Book of Life
6/7のテーマは
The Art of Listening Is the Art of Release

以下、天野の訳です。


誰かが語りかけ、あなたはそれを聞きます。
そのままに「ただ聞く」ということは、
自由に解き放つことです。

あなたがある事実を見て、
ただそのままに受け入れた時、
その事実を自由に解き放ったことになります。
事実として、ただそのままに聞き、
そのままに見ることは、
思考的な努力を伴わずに、とてつもなく大きな影響のあるものです。

例えば、「野心」ということを取り上げてみましょう。
それが何を成し、どんな影響を及ぼすかは、すでに十分に吟味してきました。
野心を持った心は、共感し、慈しみ、愛することを決して知ることはありません。
野心的な心は、それがスピリチュアルなものでも、外に現れたものでも、内に秘めたものであっても、無慈悲な心です。

あなたは今、聞きました。
聞いて、その聞いたことを翻訳して「野心で出来上がっているこの世の中でどうやって生きていけばよいのですか?」と言います。そうしたら、あなたは聞いていなかったのです。
あなたは応答しているのです。発言に、事実に反応したのです。
ですから、そのままに事実を見てていないということになります。

ただ単に事実を翻訳し、あるいは、事実に意見を付け加え、事実に対して
何らかの応答をしているのです。
すなわち、あなたは事実を見ていない…。
何の評価も、反応も、判断もしないという意味で聞くのなら、
確かにその時、
争いの元凶である「野望」を、打ち壊し、拭い去り、一掃するあのエネルギーが
その事実から生み出されるのです。




2021.05.27

純真な気づき

The Book of Life
5/27のテーマは
Simple Awareness

以下、天野の訳です。


そうです。
知識であれ、経験であれ
今まで溜め込んできたあらゆる類のもの、
また、あらゆる理想や心の投影も、
或いは「こうあるべきで、こうあるべきではない」といった
心を律するための定型化した修行の実践も、
これら全ては明らかに、探求と発見のプロセスをことごとく阻害するものです。

ですから、私たちの探究心は
差し迫った問題の解決に向けられるのではなく、
意識も深層の無意識も含めた心の中にある全ての伝統、記憶、
人類として受け継いできたもの、
それら全部をいったん手放すことができるか、ということに
向けられなければなりません。

それが可能なのは、こうしたいという思いも、
こうしなければならないというプレッシャーも全くない状態の中で、
気づくことができる時。
つまり純然と、ただ気づいている時です。

そうして気づくことは、最も難しいことの一つです。
なぜなら、私たちは近々の問題とその早急な解決にとらわれてしまっていて、
生活がとても表面的なものになってしまっているからです。
どんな専門家を訪ねても、全ての本を読み、もっと多くの知識を求め、教会に参列し、祈り、瞑想し、様々な修行をしても、それでもなお、私たちの生活は、明らかに薄っぺらなものでしかありません。
なぜなら、深い覚醒に入るすべを知らないからです。

悟ること、深く深くに、向こう側へと至ることは、気づきによるものです。
ただ思考に気づき、感情に気づく。
いけないと咎めることも、何かと比べることもなく、ただ観察するのです。
やってみると、どれほど非日常的で難しいことなのかがわかるでしょう。
私たちが行ってきたあらゆる訓練は、
これは悪い、これは良いと判を押し、比べることをしてきたのですから。



2021.04.03

欲望は理解されるべきもの

The Book of Life
4/3のテーマは
Desire Has to Be Understood

以下、天野の訳です。


欲について、考えてみましょう。
ご承知の通り欲望は、それ自体矛盾したもので、
責め苦となって、私たちを誤った方向へ引き込んでしまう。
苦痛や混乱、欲望に対する不安へと。
だから規制し、コントロールしようとする。
私たちは、その果てることのない戦いの中で、
欲望のあらゆる形態や認識から、身をよじって逃れようとします。
そうではありませんか。

しかし、欲望はそこにあります。
ずっと見張っていて、待ち構えていて、圧力をかけてきます。
たとえ欲を昇華させようとも、逃れようとしても、否定しても肯定しても、
また好きなようにさせたとしても、いつもそこにあるのです。

私たちは知っています。
宗教指導者やそれに類する人たちが「無欲でありなさい」
「無私を涵養しなさい」「欲から自由でありなさい」と言ったとしても、
それは馬鹿げていることを。
なぜなら、欲は理解されるべきもので、破壊されるものではないからです。

もしあなたが、欲を破壊するなら、
生きていることそのものを破壊することになるでしょう。
もしあなたが欲望を捻じ曲げ、型にはめ、
コントロールし、支配し、抑圧しようとするのであれば、
あなたは、とてつもなく美しいものを破壊することになるかもしれないのです。

2021.03.21

一人では生きていけない

The Book of Life
3/21のテーマは
There Is No Such Thing As Living Alone

以下、天野の訳です。


私たちは、孤独から逃れようとします。
おびえ、うろたえ、誰かに依存し、
交流することで自分をなぐさめようとするのです。

たとえば、私はゲームの中の王様で、他人は歩兵のようなもの。
歩兵が振り返って見返りを要求しようものなら、
ショックを受けて悲しみにくれるのです。
けれどもし、私の城が強固で、弱点が一つもなかったとしたら、
外界からの打撃は取るに足らないものとなるでしょう。

年齢を重ねるにつれて積み重なっていく誤った習癖は、
理解され、正されていかなければなりません。
私たちが、まだそこから離れられるうちに、
そして、辛抱強く自身を観察し、調べることができる間に。
私たちの恐れは、今、観察され、理解されなければなりません。
自分のエネルギーを、外からの圧力や、
しなければならない要求の理解だけに向けるのではなく、
自身の理解に向けなければなりません。
自分の寂しさ、恐れ、欲求、そして弱さをです。

一人で生きていくなどということは、ありえません。
生の全ては、つながり合うことだからです。
しかし、もし人と直接関係を持たずに生きるとしたら、高度な知性が必要です。俊敏で大いなる気づきにより、自らを発見するのです。
この鋭敏に働き続ける、流れのような気づきがなければ、
一人でいることは、もう支配的になっている誤った習癖を強めることになり、
バランスを崩し、ゆがみを生み出してしまいます。

だから、今、気づくのです。
歳を重ねて生じてきた、固定した独特の思考、感情の習慣に。
はっきり理解することで、それらをすっかりなくしてしまうのです。
内にある豊かさのみが唯一、平和と喜びをもたらしてくれるのです。



2021.02.22

相反するものの対立

The Book of Life
2/22のテーマは
Conflict of the Opposites

以下、天野の訳です。


いったい「悪」などというものがあるのでしょうか。
注意深く、ついてきてください。一緒に探っていきましょう。

私たちは「善」と「悪」があると言います。
「嫉妬」と「愛」があり、
嫉妬は悪いことで、愛は善いことだと言います。
なぜ、私たちは人生を分断するのでしょう。
これは善い、あれは悪いと呼ばわり、
そのことで、相反するもの同士の対立を生じさせているのに。

人の心には、妬み、憎悪、残忍性などが無いということでも、
思いやりや愛が欠けているということでもありません。
そうではなく、なぜ、善と呼ばれるものと、悪と呼ばれるものに人生を分けてしまったのかと問うているのです。
実際には、ただ一つの状態があるだけではないですか。
それは「注意深くない心」ですね。

そうです。完全な注意が払われている時、すなわち、
心が全面的に目覚めていて、注意が全てに行き届き、
あらゆるものが見えている時、善悪といったものはどこにもありません。
ただ目覚めている状態があるだけです。

そのとき、「善性」とは、良性とか徳性ではなく、
ただ愛がある状態となります。
愛がある時には、善も悪もない。ただ愛があるだけです。

もしあなたが誰かを本当に愛したとき、
良いとか悪いとかを考えることはなく、
あなたの全存在がその愛で満たされています。
そして、全てに行き渡った注意、つまり愛が止んだときにだけ、
そのままの私と、あるべき私との間の葛藤が生じます。
そのとき、そのままの私は「悪い私」で、
あるべき私は、いわゆる「良い私」となります。

自分の心をみつめていて、何かになろうとする心が止んだその瞬間に、
普段の行動が止みますが、それは停滞ではありません。
それが、全面的な注意が払われている状態
「善性」なのです。



2021.01.22

経験は信頼できるか

The Book of Life
1/22のテーマは
Can I Rely on My Experience?

以下、天野の訳です。


私たちの大部分は「権威」というものに満足させられています。
なぜなら、権威は、継続性、確実性、守られている感覚を与えてくれるからです。
しかし、この深遠な精神的革命に隠されている意味を知ろうとするものは、
権威から自由でなければなりません。そうではないですか?

自分が作ったものでも、また他から強いられたものでも
どのような権威にも、寄りかかることはあってはならないのです。
そして、それは可能でしょうか。
自分の経験に基づいた権威に頼らないということができるでしょうか。

本、先生、聖職者、教会、信仰など外面的な権威を
全て退けることができたとしても、
少なくとも、自分の判断、自分の経験、自分の分析には
頼ることはできるという気持ちがまだあります。
しかし、自分の経験、判断、分析に頼ることはできるのでしょうか。

私の経験は、私自身の条件付けによる結果です。
あなたの経験が、あなた自身の条件付けの結果であるように。
そうではないですか。
私はムスリムとして、仏教徒として、あるいはヒンドゥ教徒として育ったかもしれませんし、私の経験は、文化、経済、社会や宗教的な背景に依存しています。
あなたもそうですよね。
その経験を信頼することができますか。
導き、希望、ビジョンは
私の判断に自信を与えてくれるかもしれませんが、
それらもまた、
過去の条件付けが今表出したもの、
蓄積された記憶や経験の結果なのではないですか。

そう。こうした問いの全てを自分に向けて、
この問題に気づく時、
ただひとつだけ、
真実のもの、新しさが生じる状態、
すなわち革命を引き起こす状態があることがわかります。

それは、
心から「過去」が完全になくなり、空っぽになった時です。
その時、分析する人も、経験も、判断も、いかなる権威も存在しないのです。

2020.12.25

気づきの炎を燃やし続ける

The Book of Life
12/25のテーマは
Igniting the Flame of Self-Awareness

以下、天野の訳です。
—————————-

気づくことが難しいと思ったら、
1日の間に生じたあらゆる思考と感情を書き出してみましょう。
あなたの反応を書き留めるのです。
嫉妬、妬み、虚栄、好色、言葉の背後にある意図など。
朝食前に時間を作って書き留めてみましょう。
そのために少し早めに寝たり、
社交を減らしたりすることが必要かもしれません。
出来る時にいつでも書き留めて、
夜眠る前に、日中にあなたが書いたこと全てに目を通して、
何の良い悪いの判断も批判も加えずに、よく見て調べます。
すると、あなたの思考や感情、欲望や言葉…を生み出している、
隠れている原因を発見するようになるでしょう。

大切なことは、
書き出したことを、知的な判断とは関係なく、精査することです。
そして、よく調べていると自分自身の状態にはっきり気づくようになります。
自己を知ること、つまり自分への気づきの炎が燃えている最中で、
葛藤の原因が明らかになり、消失していきます。

考えたこと感じたことを書き続けてください。
意図したこと、反応したことを。
1回2回ではなくて、
考えられる限り何日でも、
そして、すっと簡単に気づくようになるまで。

瞑想とは、
自分に気づき続けることだけではなく、
自己を捨て去り続けることでもあります。
正しい思考があって、瞑想があり、
瞑想によって、静まり返った叡智が立ち現れます。
その落ち着いた静けさの中から、至高のものが明らかになります。

考え、感じたこと
欲望や反応を書き留めてください。
すると内的な気づきが生じ、
無意識と意識とが、協調し始めます。
そして、統合と覚醒へと導かれていくのです。


2020.11.23

作りものではない愛

The Book of life
11/23のテーマは
Love Is Not Cultivated
以下、天野の訳です。
—————————-

愛は涵養されるものではありません。
愛を神聖なものと、肉体的なものに分けることなどできません。
ただ、愛であるだけです。
たくさんの人を愛したり、誰か一人を愛したりということでもありません。
「すべての人を愛していますか」というのも馬鹿げた質問です。
誰が訪れるか、誰が去っていくかに関わらず、花は香り続けています。
そこに愛があります。
愛は記憶ではありません。
愛は心や知性が作り出すモノではありません。
目の前にある生存に関わるすべての問題…、
恐れ、嘆き、妬み、絶望、希望などが理解され解決した時に、
愛は慈しみのように自然に生じています。
求め続けている人は、愛することなどできません。
家族に執着している人には愛がありませんし、
嫉妬することも愛とは何の関係もありません。
「妻を愛している」という時、その意味は真実とは違うのです。
次の瞬間には、あなたは彼女に嫉妬したりしているからです。

愛は、大いなる自由を土台としています。
好きなようにしなさいという自由ではありません。
そうではなく、愛は、心がとても静かで、私がなくなっている時、
自己中心でない時にのみ生じています。
理想の話をしているのではありません。
もし愛がなければ、あなたが何をしようとも、
世界中のどのような神々を求めようとも、
どんな社会活動をしても、貧困や政治を変えようとしても、
どんな本や詩を書いても、あなたは死んだ人なのです。
そして愛がなければ、問題は絶え間なく増え続け、
どんどん増殖していくでしょう。

そして愛があれば、
あなたが行うことは、何ら危険にさらされることも、
何の葛藤もないのです。
愛は美徳の本質です。
そして愛のない心は、全くもって宗教的な心などではありません。
あらゆる問題から自由となり、愛と真実の美しさを知っているのは、
唯一、宗教的な心なのです。


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