気功のひろば

ブログ

2021.10.03

思考の正体

The Book of Life
10/3のテーマは
The Very Nature of Thought

*クリシュナムルティの言葉を、一日一ページ
365日分に編集された本「The Book of Life」を
一日分ずつ、翻訳しています。

バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


時間とは、思考です。

思考は、記憶によるプロセスで「時間」というものを生み出しているのです。
昨日、今日、明日という時間、何かを達成するための手段や、生活の方便として、
便宜的に使うものとしての時間、をです。
私たちにとって時間とは、何世代にも渡ってずっと、
とてつもなく重大なものであり続け、ある人生からまた別の人生へと引き継がれ、
脚色されながら日々が継続していくのです。

私たちの心が作り出したこの「時間」は、まさしく思考の本質そのもの。
「思考=時間」なのです。
何らかの「手段としての時間」が存在する限り、
心は、自らの枠を超えていくことはありません。
心がそれ自身を超えていく資質は、
時間というものから自由である「新しい心」にあります。

「時間」は、恐れを生じさせる要因です。
時計が刻む、秒、分、時、日、年といった物理的時間ではありません。
心理的な時間、内面的なプロセスとしての時間。
その内面的な時間が恐怖を引き起こすことは明らかです。

「時間=思考」、そして「時間=恐れ」なのです。
恐怖を育て、欲求不満や葛藤を引き起こします。
だから、真実を悟る即座の知覚、真実を見てとることは、時間を超越しているのです。

ですから、恐怖を理解するには、
距離、空間または「私」に気をつけるのと同様に、
心理的な「時間」に注意しなければなりません。

「私」は思考によって作られています。
昨日今日明日と、過去の記憶を使って現在を規定し、
未来の私を型にはめようとするのです。

私たちにとって恐怖は、とんでもなく重大な現実です。
恐怖に飲み込まれ、錯綜の中にある心は、決して自由たり得ません。
複雑に混乱した時間というものを理解しない限り、
恐怖ということの全貌を知り得ることは、決してありません。
恐怖と時間、やつらは一緒なのです。

2021.09.14

即座に悟ること

The Book of Life
9/14のテーマは
Immediate Perception

*クリシュナムルティの言葉を、一日一ページ
365日分に編集された本「The Book of Life」を
一日分ずつ、翻訳しています。

バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

訳 天野泰司


 

私にとっては、ただ知覚のみがあります。
即座にものごとの真偽を見て取る、直接の感覚です。

この即座に働く知覚は、何が偽りで何が真実かを見抜く、
そのための必要不可欠な要素なのです。

知性ではありません。
浅薄な知恵、知識、決まりごとなどを土台とした論理や思考ではないのです。

あなたも時々、何らかの真実を発見することがきっとあったでしょう。
例えば、「私は何ものにも属することなどできない」
というような真実に、瞬時に気づいたかもしれません。
これが知覚ということです。
分析も、理由づけも、いずれの思考の産物でもなく、真実を即座に見て取る。
理知的な思考が作り出すすべてのものは、知覚を遠ざける類のものです。

知覚は直感とは全く別物です。
直感という言葉は、饒舌かつ安易に用いられがちです。

私にとっては、この直接の知覚のみがあります。
理屈も、計算も、分析もないのです。
もちろん、分析の能力は必要ですし、
論理的に考えるために、よく働く鋭い知性は必要です。
しかし、理屈と分析ばかりに制限された心では、
何が真実かに気づくことは不可能です。

自らと深く対話すれば、
なぜ所属するのか、
なぜ自分を他にゆだねてしまっているのかがわかるでしょう。
さらに奥へと入っていけば、
自分が奴隷のようになっていること、
自由を切り捨てていること、
自分を他の何かにゆだねることで、
人間としての尊厳を失っていることに気づくでしょう。

そして、これら全てに即座に気づく時、あなたは自由です。
自由になるために努力は不要です。
すなわち、知覚こそが欠くことのできないものなのです。

 

 

2021.08.08

事実を悟る

The Book of Life
8/8のテーマは
Understand the Actual

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


これは、実はそんなに複雑ではないのです、
なかなか骨の折れることかもしれませんが。

お分かりのように、私たちは
現に生じていること、事実から始めてはいません。
今考えている、行っている、望んでいることではなくて
こうあるはずという予測、こうあるべきという理想、
そうした現実ではないものから始める、
そのために迷っているのです。

予測からではなく事実から始めるには、
細心の注意が必要です。
そして、どんな形の思考であっても、
事実に基づかないなら、心が乱れてしまいます。
だからこそ、私の中で、そして周囲で
実際に何が起こっているのかをはっきり見取ることが重要なのです。

もしクリスチャンなら、あなたはあるパターンに沿ったビジョンを思い描くでしょう。
ヒンズーでも、仏教徒でもムスリムでも、それぞれの異なったパターンに沿って思い描きます。
あなたが条件づけられた通りに、キリストやクリシュナを見ているのです。
どんな教育を受け、どんな文化の中で育ったかによって、ビジョンが決定していきます。
そのビションと、ある型の中で形作られた心と、どちらが現実のものですか。

ビジョンは、心の背景を形作っている特定の伝統の投影です。
投影されたビジョンではなく、こうした条件づけが現実で、事実なのです。
事実を理解することはとてもシンプルですが、
好き嫌いや、事実への非難、
事実に対する意見や評価によって、難しくなっているのです。
そうした様々な評価の形態から自由になることが、
事実を悟り、ありのままを悟るということなのです。

2021.07.06

とらわれのない幸せ

The Book of Life
7/6のテーマは
Happiness That Is Not of the Mind

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


私たちは、洗練に洗練を重ね、精細に精細を重ね、
楽しみから、また他の楽しみへと動いていくかもしれませんが、
その中心には全て「私」というものがあります。

楽しみながら、より多くの幸せを望む私、
幸せを探し、求め、そうなりたいと望んでいる私、
もがいている私、
どんどん磨きがかかっていく「私」…。
しかし、決して終わることがないのです。

そうした、あらゆる細かな形として現れる「私」が終わりを告げる。
その時にのみ、追い求めても得られない至福の状態、
忘我の境地、苦痛を伴うことも腐敗することもない、本当の喜びがあるのです。

経験し、観察し、思考している「私」という思考を
心が超えていくと、
朽ちることのない幸福が生じ得ます。

その幸福は、普通に使う意味での永遠ではあり得ません。
ところが心は、何らかの「存続し持続するもの」、
永遠の幸福を追い求めます。
この永続への欲望こそが、腐敗です。

非難することも、正しいとか間違いだということもなく、
生きているという過程そのものを理解できた時、
あなたのものでも、私のものでもない、クリエイティブな幸せが訪れる、そう思うのです。

クリエイティブな幸せは、太陽の光のようなものです。
もし、きらめく太陽をあなたの中に留めたいと願うならば、
それはもはや、明るくて暖かい、生命を分け与えてくれる太陽ではありません。

同様に、苦しいから、誰かを亡くしたから、成功しなかったから
といった理由で幸福を望むのなら、
その幸せは、単なる反応でしかないのです。

しかし、心が「私」を超越できるならば、
心にとらわれることのない本当の幸せがそこにあるのです。

 

2021.06.07

純粋に聞くことは、自由に解き放つこと。

The Book of Life
6/7のテーマは
The Art of Listening Is the Art of Release

以下、天野の訳です。


誰かが語りかけ、あなたはそれを聞きます。
そのままに「ただ聞く」ということは、
自由に解き放つことです。

あなたがある事実を見て、
ただそのままに受け入れた時、
その事実を自由に解き放ったことになります。
事実として、ただそのままに聞き、
そのままに見ることは、
思考的な努力を伴わずに、とてつもなく大きな影響のあるものです。

例えば、「野心」ということを取り上げてみましょう。
それが何を成し、どんな影響を及ぼすかは、すでに十分に吟味してきました。
野心を持った心は、共感し、慈しみ、愛することを決して知ることはありません。
野心的な心は、それがスピリチュアルなものでも、外に現れたものでも、内に秘めたものであっても、無慈悲な心です。

あなたは今、聞きました。
聞いて、その聞いたことを翻訳して「野心で出来上がっているこの世の中でどうやって生きていけばよいのですか?」と言います。そうしたら、あなたは聞いていなかったのです。
あなたは応答しているのです。発言に、事実に反応したのです。
ですから、そのままに事実を見てていないということになります。

ただ単に事実を翻訳し、あるいは、事実に意見を付け加え、事実に対して
何らかの応答をしているのです。
すなわち、あなたは事実を見ていない…。
何の評価も、反応も、判断もしないという意味で聞くのなら、
確かにその時、
争いの元凶である「野望」を、打ち壊し、拭い去り、一掃するあのエネルギーが
その事実から生み出されるのです。




2021.05.27

純真な気づき

The Book of Life
5/27のテーマは
Simple Awareness

以下、天野の訳です。


そうです。
知識であれ、経験であれ
今まで溜め込んできたあらゆる類のもの、
また、あらゆる理想や心の投影も、
或いは「こうあるべきで、こうあるべきではない」といった
心を律するための定型化した修行の実践も、
これら全ては明らかに、探求と発見のプロセスをことごとく阻害するものです。

ですから、私たちの探究心は
差し迫った問題の解決に向けられるのではなく、
意識も深層の無意識も含めた心の中にある全ての伝統、記憶、
人類として受け継いできたもの、
それら全部をいったん手放すことができるか、ということに
向けられなければなりません。

それが可能なのは、こうしたいという思いも、
こうしなければならないというプレッシャーも全くない状態の中で、
気づくことができる時。
つまり純然と、ただ気づいている時です。

そうして気づくことは、最も難しいことの一つです。
なぜなら、私たちは近々の問題とその早急な解決にとらわれてしまっていて、
生活がとても表面的なものになってしまっているからです。
どんな専門家を訪ねても、全ての本を読み、もっと多くの知識を求め、教会に参列し、祈り、瞑想し、様々な修行をしても、それでもなお、私たちの生活は、明らかに薄っぺらなものでしかありません。
なぜなら、深い覚醒に入るすべを知らないからです。

悟ること、深く深くに、向こう側へと至ることは、気づきによるものです。
ただ思考に気づき、感情に気づく。
いけないと咎めることも、何かと比べることもなく、ただ観察するのです。
やってみると、どれほど非日常的で難しいことなのかがわかるでしょう。
私たちが行ってきたあらゆる訓練は、
これは悪い、これは良いと判を押し、比べることをしてきたのですから。



2021.04.03

欲望は理解されるべきもの

The Book of Life
4/3のテーマは
Desire Has to Be Understood

以下、天野の訳です。


欲について、考えてみましょう。
ご承知の通り欲望は、それ自体矛盾したもので、
責め苦となって、私たちを誤った方向へ引き込んでしまう。
苦痛や混乱、欲望に対する不安へと。
だから規制し、コントロールしようとする。
私たちは、その果てることのない戦いの中で、
欲望のあらゆる形態や認識から、身をよじって逃れようとします。
そうではありませんか。

しかし、欲望はそこにあります。
ずっと見張っていて、待ち構えていて、圧力をかけてきます。
たとえ欲を昇華させようとも、逃れようとしても、否定しても肯定しても、
また好きなようにさせたとしても、いつもそこにあるのです。

私たちは知っています。
宗教指導者やそれに類する人たちが「無欲でありなさい」
「無私を涵養しなさい」「欲から自由でありなさい」と言ったとしても、
それは馬鹿げていることを。
なぜなら、欲は理解されるべきもので、破壊されるものではないからです。

もしあなたが、欲を破壊するなら、
生きていることそのものを破壊することになるでしょう。
もしあなたが欲望を捻じ曲げ、型にはめ、
コントロールし、支配し、抑圧しようとするのであれば、
あなたは、とてつもなく美しいものを破壊することになるかもしれないのです。

2021.03.21

一人では生きていけない

The Book of Life
3/21のテーマは
There Is No Such Thing As Living Alone

以下、天野の訳です。


私たちは、孤独から逃れようとします。
おびえ、うろたえ、誰かに依存し、
交流することで自分をなぐさめようとするのです。

たとえば、私はゲームの中の王様で、他人は歩兵のようなもの。
歩兵が振り返って見返りを要求しようものなら、
ショックを受けて悲しみにくれるのです。
けれどもし、私の城が強固で、弱点が一つもなかったとしたら、
外界からの打撃は取るに足らないものとなるでしょう。

年齢を重ねるにつれて積み重なっていく誤った習癖は、
理解され、正されていかなければなりません。
私たちが、まだそこから離れられるうちに、
そして、辛抱強く自身を観察し、調べることができる間に。
私たちの恐れは、今、観察され、理解されなければなりません。
自分のエネルギーを、外からの圧力や、
しなければならない要求の理解だけに向けるのではなく、
自身の理解に向けなければなりません。
自分の寂しさ、恐れ、欲求、そして弱さをです。

一人で生きていくなどということは、ありえません。
生の全ては、つながり合うことだからです。
しかし、もし人と直接関係を持たずに生きるとしたら、高度な知性が必要です。俊敏で大いなる気づきにより、自らを発見するのです。
この鋭敏に働き続ける、流れのような気づきがなければ、
一人でいることは、もう支配的になっている誤った習癖を強めることになり、
バランスを崩し、ゆがみを生み出してしまいます。

だから、今、気づくのです。
歳を重ねて生じてきた、固定した独特の思考、感情の習慣に。
はっきり理解することで、それらをすっかりなくしてしまうのです。
内にある豊かさのみが唯一、平和と喜びをもたらしてくれるのです。



2021.02.22

相反するものの対立

The Book of Life
2/22のテーマは
Conflict of the Opposites

以下、天野の訳です。


いったい「悪」などというものがあるのでしょうか。
注意深く、ついてきてください。一緒に探っていきましょう。

私たちは「善」と「悪」があると言います。
「嫉妬」と「愛」があり、
嫉妬は悪いことで、愛は善いことだと言います。
なぜ、私たちは人生を分断するのでしょう。
これは善い、あれは悪いと呼ばわり、
そのことで、相反するもの同士の対立を生じさせているのに。

人の心には、妬み、憎悪、残忍性などが無いということでも、
思いやりや愛が欠けているということでもありません。
そうではなく、なぜ、善と呼ばれるものと、悪と呼ばれるものに人生を分けてしまったのかと問うているのです。
実際には、ただ一つの状態があるだけではないですか。
それは「注意深くない心」ですね。

そうです。完全な注意が払われている時、すなわち、
心が全面的に目覚めていて、注意が全てに行き届き、
あらゆるものが見えている時、善悪といったものはどこにもありません。
ただ目覚めている状態があるだけです。

そのとき、「善性」とは、良性とか徳性ではなく、
ただ愛がある状態となります。
愛がある時には、善も悪もない。ただ愛があるだけです。

もしあなたが誰かを本当に愛したとき、
良いとか悪いとかを考えることはなく、
あなたの全存在がその愛で満たされています。
そして、全てに行き渡った注意、つまり愛が止んだときにだけ、
そのままの私と、あるべき私との間の葛藤が生じます。
そのとき、そのままの私は「悪い私」で、
あるべき私は、いわゆる「良い私」となります。

自分の心をみつめていて、何かになろうとする心が止んだその瞬間に、
普段の行動が止みますが、それは停滞ではありません。
それが、全面的な注意が払われている状態
「善性」なのです。



2021.01.22

経験は信頼できるか

The Book of Life
1/22のテーマは
Can I Rely on My Experience?

以下、天野の訳です。


私たちの大部分は「権威」というものに満足させられています。
なぜなら、権威は、継続性、確実性、守られている感覚を与えてくれるからです。
しかし、この深遠な精神的革命に隠されている意味を知ろうとするものは、
権威から自由でなければなりません。そうではないですか?

自分が作ったものでも、また他から強いられたものでも
どのような権威にも、寄りかかることはあってはならないのです。
そして、それは可能でしょうか。
自分の経験に基づいた権威に頼らないということができるでしょうか。

本、先生、聖職者、教会、信仰など外面的な権威を
全て退けることができたとしても、
少なくとも、自分の判断、自分の経験、自分の分析には
頼ることはできるという気持ちがまだあります。
しかし、自分の経験、判断、分析に頼ることはできるのでしょうか。

私の経験は、私自身の条件付けによる結果です。
あなたの経験が、あなた自身の条件付けの結果であるように。
そうではないですか。
私はムスリムとして、仏教徒として、あるいはヒンドゥ教徒として育ったかもしれませんし、私の経験は、文化、経済、社会や宗教的な背景に依存しています。
あなたもそうですよね。
その経験を信頼することができますか。
導き、希望、ビジョンは
私の判断に自信を与えてくれるかもしれませんが、
それらもまた、
過去の条件付けが今表出したもの、
蓄積された記憶や経験の結果なのではないですか。

そう。こうした問いの全てを自分に向けて、
この問題に気づく時、
ただひとつだけ、
真実のもの、新しさが生じる状態、
すなわち革命を引き起こす状態があることがわかります。

それは、
心から「過去」が完全になくなり、空っぽになった時です。
その時、分析する人も、経験も、判断も、いかなる権威も存在しないのです。

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