気功のひろば
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ブログ

2014.10.06

真理は一瞬にして訪れる

The Book of Life
10/6のテーマは
Truth Comes in a Flash

以下、天野の訳です。
——————————

真理、あるいは悟性は
一瞬にして訪れます。

そして、その瞬間は何の継続性も持ちません。
時間という場の中には無いのです。
自分で発見してください。
悟りは、新鮮で、瞬間のものです。
既にあった何かが続いているものではないのです。
既にあった何かがあなたを悟りに導くことはできません。

続いていくものを求めている限り、
関係性や愛のの永続を求め、
永遠の平和を願い、
その他全ての永続を求めている限り、
時間という場の内側で何かを追い求めていることになり、
時間を超越した状態にはならないのです。

2014.07.23

悲しみの終わり

The Book of Life
7/23のテーマは
The end of sorrow

以下天野の訳です。

————–

道を歩いていると、
自然の輝きに目が止まることでしょう。
緑の野原や天空のただならぬ美しさに。
そして、こどもたちの笑い声が聞こえています。
しかし、これらすべてのことがあるにもかかわらず、
「不幸や悲しみ」の感覚があります。
女性が子どもを産むときの苦しみ、
死の悲しみ、
何かを期待して、それが起こらない落胆、
国が没落し、敗退する悲哀。
そして堕落や収賄の悲嘆。
集団のみでなく、個人の中にもそれはあります。
あなたの家の中にも悲しみがあります。
よく見ると、
まだちゃんとできていないことの憂いや
あなた自身の考えの狭さや無能に対する落胆、
そして様々な気がついていない悲しみがあります。

また、人生には笑いもあります。
笑いは愛らしいものです。
何の理由もなく笑い、
何の原因もなく心が楽しくなり、
何のみかえりも期待せずに愛するのです。
でも、そんな笑いはなかなかありません。
私たちは悲しみを背負わされている。
私たちの人生は、不幸と葛藤の連続で、
絶え間なく崩壊し、
全存在で愛するということなど、ほとんど知る由もありません。

私たちは、人生の重荷を解消する
解決策を
意味を、
方法を、見つけようとしています。
なので、決して実際に「不幸や悲しみ」を見ないのです。
私たちは、神話へ、偶像へ、空論へと逃げようとします。
私たちは、この重荷を避けるための何らかの方法を見つけたいと願い、
「不幸や悲しみ」の波のないところにいたいと願うのです。

「不幸や悲しみ」には終わりがあります。
しかし、どのような制度や方法をもってしても終わりがくることはありません。
ありのままそのものが感得されているときに、「不幸や悲しみ」はないのです。

2014.07.04

幸福は知覚ではない

The Book of Life
7/4のテーマは
Happiness Is Not Sensation

以下、天野の訳です。

知的な心が、幸福を見つけることは決してできません
幸せは、知覚として、追求し見つけることができるものではないのです。
知覚は何度も何度も見つけることができます。それは常に失われ続けているからですが、
幸せは見つけることができません。
思い出している幸せは、単に知覚に過ぎません。
現在に善し悪しをつける単なる反応です。
既に終わっていることは幸せではありません。
既に終わっている幸せの経験は知覚なのです。
思い出すことは過去のことで、過去は知覚なのです。
幸福は知覚ではありません。

あなたが知っていることは過去です。今ではありません。
そして過去は知覚です。反応です。記憶です。
あなたは幸せだったことを思い出し、
その過去が幸福とは何かを教えてくれるでしょうか。
過去を思い出すことはできるでしょう。
しかし過去は幸せではあり得ません。
認識していることが幸せではありません。
何が幸せかを知っていることは幸せではありません。
認識は、記憶の反応です。
そして記憶や経験の複合物である知的な心が
幸せであるということがあったでしようか。
その認識こそが、経験することを妨げているのです。

幸せだと感じたとき、そこに幸せはありますか。
幸せがあるときには、あなたは幸せに気づくことができますか。
意識はつねに葛藤を伴ってやってきます。
より多くを求める記憶の葛藤です。
幸せは、より多くを求める記憶ではありません。
葛藤があるところに幸せはありません。
葛藤は知的な心があるところに生じます。
思考はどのようなレベルのものであっても、記憶に対する反応です。
ですから、思考はどうしても葛藤を生み出してしまうのです。
思考は知覚であり、知覚は幸せではありません。
知覚は常に満足を求めます。
終了したものが知覚です。
しかし幸福は終わったものではありません。
幸せは、探しあてることのできないものなのです。

2014.07.03

幸せは追い求められるものではない

The Book of Life
7/3のテーマは、
Happiness Cannot Be Pursued

以下、天野の訳です。

幸せとは何でしょう。
ある人は、望むものが得られることで幸せになると言うでしょう。
あなたは車が欲しい。その車を手に入れた。だから幸せだと。
サリーや洋服が欲しい。
あるいは、ヨーロッパへ行きたいと思っていたのが、
行くことができて私は幸せだ。
偉大な政治家になりたくて、それが実現すれば、幸せだと。
ところが、もしそうしたものを手に入れることができなければ、
私は不幸なんだと。

ですから、あなたが幸せと呼んでいるものは、
あなたが望んだものを手に入れることで、
成し遂げ、あるいは成功し、立派な身分となり、
あなたが望むものを何でも手に入れることです。
あなたが何かを求め、それを手に入れることができるかぎり、
あなたは完璧に幸せを感じていて、失望することがない。
ところが、もし望むものを手に入れられないとしたら、
不幸が始まっていくのです。

これは、私たちみんなに関係のあることです。
お金持ちや貧しい人だけのことではありません。
お金持ちも、貧しい人も、みんな何かを手に入れようとしています。
自分たちのために、家族のために、社会のためにと。
そして、もしそれが妨げられ、中断されたとしたら、
不幸になるでしょう。
貧しい人は望むものを手に入れることが難しい
というようなことを言っているのではありません。
そんなことを問題にしているのではありません。
私たちが明らかにしようとしているのは、
幸せとは何なのか、
あなたが意識した何かが幸せなのかどうかです。

幸せだ、たくさん手に入れていると意識したら、それが幸せですか。
幸せだと意識した瞬間に、幸せではなくなっていませんか。
ですから、幸せを追い求めることはできないのです。
私は謙虚だと意識した瞬間に、謙虚ではなくなっています。

そう。
幸せは追い求めて得られるものではありません。
幸せはやってくるのです。
でも、あなたが幸せを求めると、
幸せはあなたから逃げていくでしょう。

2014.06.03

固定観念

The Book of Life
6/3のテーマは
The Pattern of an idea

以下、天野の訳です。

もし、「どうやってエネルギーを節制したらよいか」と問うのであれば、
あなたは、一つの固定観念を創り出しているのです。
「いかにしてエネルギーを節約するか」と、
そしてその固定観念に従って、自らの人生を管理するのです。
すると、再び矛盾が生じます。

一方、
どこへエネルギーが浪費されているかということに
自分自身で気づけば、
浪費を引き起こす主要な力は、葛藤であることが判るでしょう。
葛藤は、問題を引き起こし、
決してそれを解決することがありません。
葛藤とは、
既に過ぎ去った恐ろしく退屈な記憶と共に生活すること、
因習に従って生きていることです。

エネルギーの浪費ということの本性を知らなければなりません。
エネルギーの浪費ということにはっきり気づくのは、
シャンカラや仏陀や、その他の聖人によってではなく、
日々の生活の中での自らの葛藤を、実際に観察することによってです。

エネルギーの浪費の主原因は葛藤ですから……
でも、そう言ったからといって、
じっとして、だらだらしていなさいという意味ではありませんね。
葛藤は、ずっと存在し続けることになるのです。
事実よりも観念が重視されている限りは。

2014.06.01

気は自ら整おうとする

The Book of Life 6/1のテーマは
Enegy Creates Its Own Disipline

あらゆる争いごとや問題は、
いわば私たち人間の意識が創り出したもの。
「〜のために、こうしよう」という思いが、
世の中を便利にして来た反面、乱している面もあるのです。
特に、抑圧された心身のエネルギーが一気に噴出するときには、
それが仮に正しくとも、必ずやり過ぎが生じ、
破壊的あるいは自虐的な行為に走ることも多いのです。
私たち人間の活動は、意識以前にある、
エネルギーの集散の働きに注目することで、
もっとスムーズで平和的なものになるでしょう。
ところが、意識で
「これは良い」「これは悪い」
「こうすべき」「これをしてはいけない」
と枠をつくると、
自然なエネルギーの流れがつかえて、かえって乱れてしまいます。
一方、「自然」の正確で緻密でダイナミックな働きに直接触れると、
そのあまりの見事さに、意図的な行為を全て手放し、
「自然に任せきる」ようになります。
何もしようとしないところに、最高に素晴らしく美しい働きが立ち現れ、
ただそれに導かれるようにして、自ずと動いていくのです。  天野

以下、天野の訳です。
—————-

ありのままの真実を探求することには、
計り知れないエネルギーが必要です。
もし、そうしなかったら、
人はエネルギーを浪費し、
浪費が害悪を引き起こすことになり、
その結果、社会は人を統制しなければならなくなります。
では、神や真実を求めていくなかで、
エネルギーを解放することは可能でしょうか。
何が真実かに気づいていく過程の中で、
生命の本質を知る人でありながら、
社会からも叩き潰されないような人であることができるでしょうか。

ご承知のように、
人はエネルギーです。
もし真実を探究することがなかったら、
このエネルギーは破壊的なものとなり、
社会は個々人を統制し、型にはめていくことになります。
そして、このエネルギーを押し殺すのです。

そして、あなたはおそらく、
別の興味深い、とても単純な事実に気づくでしょう。
……何かを本当にしたいと思ったその瞬間に、
それをなし得るエネルギーを手にしている……
ということに。
まぎれもなく、このエネルギーそのものが、
自らを制御する舵取り役となるのです。
ですから、外側の規範は不要です。

ありのままの真実に気づこうとするとき、
エネルギーは自律的に整おうとするのです。
真実を求める人は、自然と善良な市民となり、
同時に、どのような特定の社会や政府の型にもはまっていないのです。

2014.05.24

「気づき」は問題を焼き払う

The Book of Life
5/24のテーマは
Awareness May Burn Away the Problems

純粋に見ること。
純粋に感じること。
純粋に気が通っていること。
それが気功の本質であり、また自然ということでもあります。
意識的な働きを私だと思うときに、その自然が陰っていき、
意識が薄らいで天地とつながりあったような感覚の中にいるときに、
元々の自然が光り輝いています。
Awaenessと呼ばれるもの、
それは気功で「人天合一」と言っているものです。  天野

以下天野の訳です。
————–

全ての思考は明らかに条件づけされたものです。
「自由な思考」などというものは無いのです。
思考は、自由であることが決してありません。
思考は、様々な条件によってもたらされた結果なのです。
思考は、身の周りの背景、文化、気候、社会、経済、政治などにより条件づけられています。
あなたが読んでいるその本やあなたが実践しているそのことは、
全てそうした影響のもとにできているのです。
いかなる思考も、この影響をまのがれることはできません。

そして、もし、私たちが気づくことができれば……
「気づく」ということが何を意味するかは、じきに検討できるでしょうが。
おそらく、
精神を様々な条件づけから自由にすることができるでしょう。
意志の働きなしに、「自由にしよう」と意を決することなしにです。

なぜなら、
もしあなたがこうしようと決意した瞬間に、
その思ったところの何かが生じてしまうからです。
「精神を様々な条件付けから自由にしなければならない」と言ったという、
そのことが生じるのです。
その生じたもの自体は、何かをしようとする欲望の結果です。
ですから、既にそこに葛藤があるのです。

では、私たちが条件づけられているということに気づくことはできますか。
ただ、純粋に気づくだけです。
そこには、全く葛藤がありません。

その「気づき」は、
それが訪れるならば、おそらく、
諸問題を焼き払ってしまうことになるでしょう。

2014.04.18

ずっと考えることはエネルギーの無駄

The Book of Life
4/18のテーマは
Constant Thought Is a Waste of Energy

私たちのほとんどは、努力し、もがく生活をしています。
努力し、もがき、懸命になっているそのことは、
あのエネルギーの浪費なのです。

私たちは人類の歴史の中で、
真実や神、その他言い方はなんでも良いのですが、
そうしたものと出会うためには
純潔でなければならないと言われてきました。
その純潔というのは、性的な禁欲を保つことを誓い、
抑圧し、制御し、自分自身と一生涯終わることなく戦い続けることです。
その誓約を守るために。
このエネルギーの浪費に目を見開いてください。
快楽にふけることもまたエネルギーの無駄ですが、
抑圧する方がはるかに重大なのです。
抑圧に向かい、制御に向かい、
あなたの欲求の否定へと向かっていく、その努力が
あなたの精神を破壊するのです。
そして、そのねじまがりから
あなたはなんらかの貞淑感、
じきにずたずたとなる精神を得るでしょう。

どうかお聞きください。
このことを自分の中でよく調べて、隣人のこともよく観察してください。
そして、このエネルギーの浪費、つまり戦いについてよく調べるのです。
性に関するあれこれ、その実際の行為に関してではなく、
性の観念的なもの、思い描くもの、その喜びなどについてです。
それらについて考え続けることはエネルギーの浪費です。
そして、大部分の人たちは、エネルギーの浪費をしています。
否定したり、純潔を誓ったり、ずっとそのことを考え続けたりして。

天野泰司 訳

2014.04.11

愛とは何ですか

The Book of Life
4/11のテーマは
What Do You Mean by Love?

愛は知ることのできないものです。
愛がそこにあるのは、
知っていると思っていたものが、
悟った状態になり、超越されたときだけです。
心が、今まで知っていたことから自由なときだけ、
ちょうどそのときだけ愛が働きます。
ですから、
愛へは消極的に近づかなければならず、
積極的に近づくべきではないのです。

愛とは、大抵の人にとってどんなものでしょうか。
私たちが愛するという場合は、その中に、
所有欲があり、支配、あるいは従属があります。
この所有するということから、嫉妬と、失うことの恐れが生じます。
そして、私たちはこの所有欲求を正当化します。
所有欲からは嫉妬と数えきれないほどの葛藤が生じます。
みなさんはそれらを良く知っていますね。
所有欲は、ですから、愛ではないのです。
また、愛は感傷的なものでもありません。
感傷的になり、感情的になることで、
愛は締め出されてしまいます。
感傷や感情は単なる感覚に過ぎません。

愛のみが、
狂気、混乱、そして争いを変化させることができます。
どのような制度も、どのような理論も、左であろうと、右であろうと、
人類に平和と幸福をもたらすことはできません。
そして、愛があるときには
そこに所有欲はなく、うらやみもなく。
慈しみと思いやりがあります。
理論ではなく、実際にです、
あなたの妻に、子どもに、隣人に、使用人などに対して。

唯一愛のみが、
慈しみと美しさ、秩序と平和をもたらすことができます。
愛はその大いなる恵みとともにあります。
「あなた」というものが無くなったときに。

天野泰司 訳

2014.02.21

天心のままに動くことが、愛を実践する道

The Book of Life
2/21のテーマは
Acting Without Idea Is the Way of Love

私たちの思考は、
通常、とても狭い範囲で働いています。
テープレコーダーに吹き込まれた記憶に従って、
そのいくつかを繰り返し再生しているようなもので、
いつもの思考のパターンは、たいてい決まっているのです。

同時に、私たちの体の中には、
そうした思考パターンの組み合わせ以前に
動いている何かがあります。
水面下で動いている、意志以前の意志のようなもの。

例えば、体を動かそうとする以前に、
体の中にこう動きたいという意志のようなものがあり、
ぽかんとしてその意識以前の動きを引き出していくと、
本来の自発的な動きを引き出すことができます。
すると、自然に沿った最良の動きや働きが
その場に立ち現れてきます。

そうしてぽかんとして自分で動いていると、
自分の心身が整っていきますし。
誰かと組んで動いていると、
相手の心身ために一番必要なことを勝手にしていたりします。

活元運動や活元相互運動、愉気などをされている方は、
そのことを肌で感じて知っていますし、
もし知らなくても、
何かの目標に向かってではなく、この瞬間に
ただ夢中になって動いていると、
まさしく「愛」というより他に言いようのない、
無心で利他的な働きの中に
どっぷりと気持よく浸かっていたりするものです。

「観念」という限定された心の動きをただよく観察していると、
何かふっと気づくものがある。

努力してそうするのではなくて、
あたりまえに自分だと思っているもの、自分だと思っている心、
そこにちょっとした疑問符をなげかけて、淡々と生活していく中に、
気づきと呼ばれるようなものが眠っているような気がします。

以下、天野の訳です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

思考は、いつも限定されざるを得ません。
条件づけられている思考者自身によって。

思考者は、いつも条件付けされていて、自由であることがありません。
もし思考がおこれば、即座に観念がついてきます。

行動するための「こうしようという思い」は、更なる混乱を招きます。
そうだと判って、観念なしに行動することは可能でしょうか。

できます。愛の働きのままに動けばよいのです。
愛は、観念ではありません。感情でも記憶でもありません。
先延ばしにする感覚でも、自分を護る手段でもありません。
私たちが、愛に気づくことができるのは、
観念というもののふるまいの全てが判った時です。

では、聞きます。
他の方法を捨て去り、愛による道を知ることができますか。
それが唯一の救済の道なのです。
その他のどの方法も、政治も宗教も、問題を解決することはないでしょう。
これは理論ではありません。それについてよく考え、
生活に取り入れようとしなければならないことではないのです。
ありのままの実践そのものなのです。

愛とともに行動している時に、観念は存在しますか。
そのままに受け取らないでください。
しっかりとよく見て、調べて、深くその中に入っていってください。

今まで、他のどんな方法を試みても、苦悩を救う答えはなかったのです。
政治家は約束するかもしれません。
いわゆる宗教団体は未来の幸せを約束するかもしれません。
でも、私たちは今それを手にしていません。
そしてお腹がすいている時には、
将来のことはそれほど重要ではありません。

私たちは他のあらゆる方法を試してきました。
そして、唯一、
観念のふるまいを知り、観念を捨て去ることが出来た時に。
愛による道を知り、その愛がまさに働き始めるのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・

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