気功のひろば

ブログ

2016.10.17

いつも新しい心

The Book of Life
10/17のテーマは
A Fresh Mind

以下、天野の訳です。
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何かのために努力を重ねること
何かになろうと努力を積み上げること、
そのことが精神の廃退と老化の真の原因です。
なんと早く老いていくことかご覧なさい。
60を過ぎた人たちのことだけではなく、
若い人々もそうです。
精神的に、なんとこんなに老いてしまっているのでしょうか。
ほんのわずかの人たちのみが、
若い精神の状態を保ち、あるいは維持しています。
「若い」と言っているのは、
単に、ワクワクたい、楽しい時を過ごしたいという心のことではなく、
汚染されていない無垢な心のことです。
人生の災難や事件によって、引き裂かれ、くるまれ、ねじ曲げられることのない心、
苦闘、悲しみ、絶え間ない努力により、ぼろぼろになることのない心のことです。
そうですとも、若い心を保つことは必要にして不可欠です。
老いた心は記憶に対する恐怖でいっぱいになっていて、
生きていません、熱意というものがありません。
はじめから全部決まったとおりの、いわば死んだ心です。
はじめから決まっていて、
その決まったものに従って動いている心は死んでいるのです。
ところが、若い心は次々に新たな決断をしていきます。
そのいつも新しい心は、
無数の記憶から生じる重荷を負うことがありません。
苦しみの影を全く持つことがない心は、
たとえ悲しみの淵を歩んだとしても、
傷つくということがありません。

そんな若い精神が必要なんだと言いたいのではありません。
若い心は、努力や犠牲によって追求できるものではないからです。
どんなお金でも買えない、売ったり買ったりできるものではもちろんありません。
ところがもし、若い精神の大切さに、その欠かせない尊さに目が開き、
そのありのままの真実に気づいたとすれば、
そこに何か別のことがおこるのです。

2016.09.03

知性と「こころ」の統一

The Book of Life
9/3のテーマは
Unity of Mind and Heart

以下、天野の訳です。
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知力のトレーニングを重ねても、
智恵に結びつくことはありません。
むしろ、智恵が生じるのは、
知的なものと情的なもの、
その両方が完璧な調和の中で動いている時です。

知性と智恵との間には、広大な隔たりがあります。
知性は、単なる思考です。
思考は、情的なものとは独立してち機能しています。
知性は、情的なものとは無関係なので、
どんな特別な分野の研鑽を重ねたとしても、
立派な知識は得られるかもしれませんが、
智恵を得ることはできません。
なぜなら、智恵の中には、
理知的に考える能力と同様に、
感じる能力が元々備わっているからです。
智恵の中には、どちらの能力も等しく存在しています。
とてもはっきりと、そして調和的に。

現代の教育は、知性を開発しています。
次から次へと生活への解釈や説明を与え、
原理原則をあてがっていきます。
そこには愛や慈しみの心、調和的な品性が欠落しています。
そのため、争いから逃れるための狡猾な知性を作り上げていくのです。
ゆえに、私たちは、科学者や哲学者の説に満足してしまうのです。
知性、つまり論理的な心は、そうした無数の説明に満足してしまいます。
しかし智恵はそうではありません。
「わかる」という時には、
行動に伴って、知的な精神と感覚的な心との完璧な統一がなければならないからです。

2016.08.30

不満を生き生きと保つ

The Book of Life
8/30のテーマは
Keep Discontent Alive
以下、天野の訳です。

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「不満」は、私たちの生活に欠かせないものではありませんか。

疑問を生じ、問いかけ、よく調べ、
何が真実か、本当のことは何か、
生活に何が必要不可欠なのかを見つけようとする不満のことです。

学生の頃には、この燃え盛るような不満を持っていたかもしれませんが、
よい就職ができたことで、この不満は消え、満足しました。
家族のために頑張り、生活の糧を稼がなければならないので、
不満は静まり、壊され、
日々の生活の出来事に満足する平凡な存在となり、
不満ではなくなったのです。

しかし、この不満の炎は、終始保たれていなければなりません。
そうすることで、不満の正体は何なのかという問題への
本当の問いかけがおこり、本当の探求が生じます。

ところが、精神はいとも簡単に満足という麻薬を求めるのです。
徳や品性というものによって、あるいは
頭に思い浮かべたことや、行動を通じて不満を満たしてしまい、
それが習慣になり、とらわれてしまうのです。

私たちは、このとらわれた状態に慣れっこになってしまっていますが、
問題は、いかに不満をなだめ、鎮まらせるかということではなく、
不満の火種をずっと内に保ち、
生き生きと活発に働かせ続けることこそが重要です。

あらゆる宗教書、精神的指導者、国家や政治の形態が、
心をなだめ、静かにさせ、
どうにかして押し鎮まらせ、
不満をどこかにやって、何らかの満足に溺れさせようとします。

何が本当なのかを見つけるために、
「満足をしない」ことは必要不可欠なのではないでしょうか。

2016.08.10

事実はひとつ、永遠に変わらないものはない

The Book of Life
8/10のテーマは
There Is Only One Fact: Impermanence
以下、天野の訳です。

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永久に続く状態というものがあるでしょうか、あるいは無いのでしょうか。
そうあって欲しいということではなく、
実際の事実として、真実に気づいていきましょう。

私たちに関する全てのことは、
私たちの範囲のことも、それ以外のことも、
関係性や、思考や、感覚も、
不変のものではなく、常に変化の流れの中にあります。

そのことに気づくと、
心は永遠に続くものを欲しがります。
永遠の平和、愛、幸福、
時間にも出来事にも壊されることのない安全を求めるのです。

そうした心の働きが、不変の魂であるとか、真我であるとか、
諸々の永遠の楽園のビジョンを造り出しているのです。

ところが、この永遠性というものは、
元々無常の中から生まれたものであり、
その永遠性の中に、無常の種を宿しています。
事実はただひとつです。
永遠に変わらないものはありません。

2016.07.10

苦痛からの逃避としての信仰

The Book of Life
7/10のテーマは
Acquiring Beliefs to Ward Off Pain

以下、天野の訳です。

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肉体的な苦痛は、神経的な反応です。
しかし、精神的な苦痛は、
自分に満足を与えてくれそうなものにしがみつくことから生じます。
それを私から奪おうとする人やことに対して、恐怖を抱くようになるのです。

精神的な蓄積は、私の満足が妨害されない限りでは、精神的な苦痛を防いでくれます。
つまり、私は蓄積や経験のかたまりだということです。
大きな妨害を防いできた経験の蓄積。

そして、私は妨害を望まないのです。
ですから、私の満足を妨害するものを恐れるのです。
そのため、私の恐れは、既に知っているものです。
私はその蓄積してきたものを恐れている。
肉体的なものであれ精神的なものであれ、
苦痛から逃れ、悲しみを防ぐために集めてきた手段です。

しかし、精神的な苦痛から逃れようとするプロセスが積み重ねられていく
まさにその中に不幸はあるのです。

知識も苦痛を防いでくれるでしょう。
医学的知識が肉体の苦痛を防ぐ助けとなるように、
信仰が精神的苦痛を防いでくれる助けとなると、
だから、信仰を失うことを恐れるのです。
その信仰に対して、現実の完全な知識も、確かな証拠もないにもかかわらず。

私は、今まで押し付けられてきた
伝統的な信仰や信条のいくつかを拒否するかもしれません。
なぜなら、自分自身の経験が勇気と自信と理解とを与えてくれているからと。
しかしそのような、私が求めてきた信条や知識というようなものは、
基本的にみんな同じです。
苦痛からの逃避の手段でしかありません。

——-◆ 訳者コメント ◆——–

精神的な苦痛の裏を返すと、
とりあえずの安心を失うことに対する
絶え間ない恐れがそこにあります。
そのため、精神的な苦痛を避けようとすればするほど、
一時的に不安の影が消えたように思うことはあっても、
内面の不安は大きくなり、
そのために苦痛がさらに増すことになってしまいます。
その根本の構造に気づくことが無ければ、
ともかく応急手当的に何かを信じることによって、
とりあえずの安心をつくろうことが繰り返され、
苦痛が生じたら逃避し、逃避することで苦痛の種が増え、
苦痛が増えればまた妄信の壁を厚くして、
その逃避努力に比例してまた苦痛が増えていことになる。
それが「精神的な蓄積」と呼ばれるものでしょう。
光はその「経験の蓄積」から離れるところにありそうです。
天野

2016.06.22

暴力

The Book of Life
6/22のテーマは
Violence

以下、天野の訳です。

—————-

「暴力」というものに、完全な注意を集めた時に、
いったい何が起こるでしょう。

私が「暴力」と言っているのは、
信仰や信条、条件付けなどによって
人々を分け隔てることだけではなく、
自らの安全を求めたり、
社会的な慣習に従って
個々人の安全を守ろうとすることも含まれています。

あなたは、その「暴力」をはっきり見ることができますか。
完璧な注意を伴って見るのです。
すると、何が起こりますか。
完璧な注意を伴って見ることは、
歴史を学ぶことでも、あなたの夫や妻を見るときでも、
どんなときでも同じです。すると何が起こりますか。

あなたはそうした完全な注意をはらって何かに対したことがあるでしょうか、
おそらくほとんどの方は、そこに至ったことが無いでしょう。
でも、そうしたら何が起こりますか。

そもそも注意とは何ですか。
あなたが何かに完璧な注意を集めている時、
そこには確かに、暖かな気配りがあり、
暖かな気配りは、思いやりや純粋な愛情が無ければできるものではありません。

愛があって注意を集めている時、そこに暴力は存在し得ますか。
お分かりですね。
「形式上は暴力はいけないと思ってきた」、
「私は暴力から逃れてきた」、
「暴力は正当であるとしてきた」、
「暴力は自然なんだと言ってきた」、
それらは全て、注意の欠如です。

ですが、もし私が「暴力」と呼ばれるものに注意を集めるとすれば、
その注意の中には、暖かな気配りがあり、思いやりがあり、純粋な愛があります。
そのどこに、暴力というものの余地があると言うのでしょうか。

——◆ 訳者コメント ◆——-

信仰の違い、主義や考え方の違い、
これはこうすべきだという固定観念が、
争いや対立を生み、相手を傷つける暴力へと発展する。
そして、自分の安全を守ろうとし、
自分にとって都合が悪いことが起こらないようにすることも
全て暴力に含めていることも深く心を打ちます。

てあての心で全てに向き合っている時、
暴力というものはどこを探しても見つけることができません。 天野

2016.04.21

手段と目的はひとつ

The Book of Life
4/21のテーマは
Means and End Are One

以下、天野の訳です。
—————–

自由を獲得するために、何も必要ありません。
自由は、バーゲンや投げ売りセール、
大値引きでは手に入れることができません。
…取引でも、代償でも、取り除こうとすることでもない。
自由は、お金で買えるものではないのです。
もしそうするのなら、
あなたは市場で売っているものを買うことになり、
それは本物ではないということになります。

真理はお金で買うことができません。
真理を得るための、どんな方法もありません。
もし手段があるのであれば、その最終目的も真実ではあり得ないでしょう。
手段と目的とは一つです。別々のものではありません。

性的な禁欲を自由へと、真理へと至るための手段として用いるのであれば、
その禁欲は、真理の否定です。
純潔は、あなたが自由や真理を買うためのコインではないのです。

なぜ私たちは純潔というものを、必要不可欠なものと考えるのでしょう。
性ということは、どんな意味を持っているのでしょう。
性行為だけでなく、それを考えたり、感じたり、期待したり、逃れようとすること、
それが私たちの問題なのです。

私たちの問題は、興奮です。もっともっとと求めることです。
自分を見てください。他の誰かを見るのではありません。
なぜあなたの思考は性でいっぱいになっているのでしょう。
愛があるときにのみ、純潔ということがあり、
愛がないなら、純潔はありません。
愛のない禁欲は、単に肉欲が形を変えたものでしかありません。

純潔を保とうとすることは、
他の何かになろうとすることです。
それは、ある人が力を得ようとすること、
有名な法律家として、政治家として、
あるいは他の何かとして成功しようとすることと似ています。
その変化は、同じレベルです。
それは、純潔ではなく
単に、願望の結果として生じた目的です。
ある特定の欲望に対してずっと抱いている抵抗が生み出したものです。

ですから、そこに愛が存在するとき、
純潔の問題は消えていくのです。
すると、生活というものが問題ではなくなります。

生活というものは、完全なる愛の中で、
その全てをあますところなく生ききるものとなるのです。
その革命は、新しい世界を生み出すでしょう。

2016.03.08

一生懸命に手放そうとすること

The Book of Life
3/8のテーマは
The Cultivation of Detachment

以下、天野の訳です。
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そこには、執着だけがあって、
執着を無くすなどということはありません。
心が、「無執着」というものを造り出しているのです。

「無執着」とは、執着による苦しみの反応として生じたもの。
執着が生じたので無執着になろうとするのであれば、
別の何かに執着しているのです。
だから、その全部が執着なのです。

妻に、夫に執着し、子どもに執着する。
ある考えに、伝統に、権威に、…執着する。
そして、その執着に対してあなたは「無執着たらん」とするのです。

執着による悲しみや苦しみが生じたので、
無執着というものを培おうとしているのです。

あなたは、執着の痛みから逃れようとしますが、
その逃避は、また執着できそうな何かを見つけるだけに終わります。
だから、執着だけがあるのです。

一生懸命に執着から離れようとすることは、愚かなことです。
どの本も「執着から離れよ」と主張していますが、
ことの真相はいったいどうなのでしょうか。

もし、あなたの心をよく観察するなら、
そこにとてつもないものを発見するでしょう。
ところが、執着を離れようとするなら、
あなたの心は新たな執着にとらわれているだけなのです。

2016.02.11

信じることの向こうへ

The Book of Life
2/11のテーマは
Beyond Belief
以下、天野の訳です。
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私たちの生活は
醜くて、痛みに満ちていて、悲しみに満ちているので、
それらの全てに理由付けするために、
何らかの理論や、何らかの憶測や満足、何らかの教義を求めようとします。

そして、私たちはそれらの言い訳に、言葉に、理論にくるまれてしまうのです。
そうして信じ込んだことは、次第に深く根を下ろし、
揺るぎのないものとなっていきます。
なぜなら、それらの信条の影には、それらの教条(ドグマ)の影には、
「判らないということに対する絶え間ない恐れ」があるからです。

しかし私たちは、その恐れを決して直視することがありません。
そこから目をそらそうとしているのです。
信じることが強くなればなるほど、ドグマも強固になります。

そうした信条というものをよく吟味していくと、
キリスト教でも、ヒンズー教でも、仏教でも、
その信条が人々を分け隔てているということに気づくのです。

おのおのの信条、おのおののドグマには、
一連の儀式があり、一連の強制があり、
それらが人を縛り、分け隔てるのです。

ですから、私たちは何が真実か、何が大切なことなのか、
見極めようとすることから始めなければなりません。
この不幸の中に、この苦闘の中に、この痛みの中に。

なのに、私たちはすぐに信条や儀式や理論のとりこになってしまうのです。

信仰とは腐敗です。
信仰や道徳の背後には、知性、我というものが潜んでいて、
その我が大きくふくれあがり、強力で強靭になっていくからです。

神への信仰、あるいは宗教的な何かへの信仰について考えてみましょう。
私たちは、信じることが、敬虔なことだと考えています。
判りますか。
もし信じないのなら、無神論者だとみなされ、
社会的な非難をあびるでしょう。
ある社会では、神を信じる者を非難するでしょうし、
別の社会では、そうでない者を非難するでしょう。
両者には何の違いもありません。

そして、宗教の中身は、信じることばかりになり、
その信条が精神にそれ相応の影響を与え、活動するので、
精神は決して自由になり得ないのです。

しかしある時にのみ、自由はそこにあります。
何が真実か、神とは何かを、
何の信仰にもよらず見いだした時にです。

あなたが信じているところのものは、
「神とはこういうものであるべきだ」
「真理とはこういうものであるべきだ」
というあなたの考えを投影しているのみなのです。

2016.01.15

破壊は創造

The Book of Life
1/15のテーマは
To Destroy Is to Create
以下、天野の訳です。

———————-

自由であるためには、
権威というものを隅から隅まで
よく調べなければなりません。
そして権威という穢れたものの全てを
ばらばらに引き裂いてしまわなければなりません。
そのためにはエネルギーが必要です。
実際の身体的な労力も、
また精神的なエネルギーも必要です。
しかし、葛藤の渦中にある時には、
そのためのエネルギーが壊され、
浪費されてしまうのです。
そうです。
葛藤の全プロセスにはっきり気づいている時には、
葛藤が止み、
豊かなエネルギーがそこにあふれているのです。
そうして、前に進んでいくことができます。
何世紀にも渡って築き上げてきた、
全く無意味なあなたの住処を打ち崩していくのです。

お分かりですね。
破壊は創造です。
私たちは壊さなければなりません。
打ち崩すのは、建物でも、社会や経済の機構でもありません。
そうしたことは日常的におこっていますが、そんなことではなく、
精神的なものを打ち砕くのです。
無意識の、あるいは意識的な防衛を、
民族的なあるいは個人的な安全保障を、
深層的な、あるいは表面的な安心の確保を。
それら全てをばらばらに引き裂いて、
完全な無防備にならなければなりません。
愛することも慈しむことも
無防備でなければできないからです。
そしてあなたは権威という野心を
見て取り、理解するでしょう。
いつどんな状態で権威が必要かというと、
警察官の権威ぐらいで他には不要だと。
学びにも、知識にも、どんな能力にも権威はありません。
その職分に就くことで
社会的な地位につながる権威などどこにもないのです。
精神的な指導者、宗教的な指導者、あるいはその他の、
全ての権威について理解するには、
とても鋭敏な心が要求されます。
濁った頭でも、鈍った頭でもなく、
澄み切った頭脳が必要なのです。

訳者コメント

私たちが生きているこの世界は常に変化しているので、
これが正しいという判断も、いつもゆれ動いていきます。
そして、これこそが正しいという思考が大きな障壁となって
スムーズな変化の流れを止めていることがよくあります。
気功の学校では、正誤の思考を越えて
「自然か不自然か」という物差しを使っています。
「これは自然だろうか」と考えるには、
まず体をゆるめて感覚のスイッチをオンにします。
身体の鋭敏な感覚が、自然な思考の働きを支えています。
天野泰司

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