気功のひろば
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ブログ

2015.05.13

気功生活 Vol.88

気功生活88号

伝える

心から心へ、
体から体へ、
自らが培った
大切なことを。

 

【目次】

あるべきやうは 天野泰司
肩の荷がおりる総会 告知
  …大切なことをやさしく伝えていこう
春の講座レポート / 講座ノートから
京都気功散歩 栂尾を歩く
The Book of Life 4/84/15
北から南から 庭と山羊  山下良文&なお
連載・門ちゃん日記 森田久美&森田徹
この春は 吉田純子
けいじばん

 

あるべきやうは

天野泰司

15周年!
おかげさまで、気功協会は今年6月に15周年。
2000年の設立当時に思い描いていた夢のうち、
叶って来たものも、まだ道半ばのものもあります。
そして、今はっきり言えることは、
ほんとうに自然で気持ちよく、清々しい集まりになってきたことです。

気功協会の定款には、その目的として
「自由で対等な関係で有機的につながり合い支え合う」こと、
また「お互いに学び合い、深め合い、お互いの交流を促進し合」うことが、
明記されていますが、それがこの15年間で着実に実ってきています。

この春、京都栂尾の高山寺を訪れました。
京都国立博物館の特別展「鳥獣戯画と高山寺」を観て、
ぜひ行ってみたいと思っていましたが、
遠足を兼ねた理事会という形で参詣が叶いました。
緑が深く、清浄な空気に心が開きます。

明恵上人と天香さん
高山寺を開いた明恵上人(1173〜1232)は
「あるべきやうわ」ということをとても大切にしてこられた方でした。
「栂尾明恵上人遺訓」には、
「人は阿留辺幾夜宇和の七文字を持つべきなり。
僧は僧のあるべきやう。俗は俗のあるべきやう。
乃至帝王は帝王のあるべきやう。臣下は臣下のあるべきやうなり。
此のあるべきやうを背く故に一切悪しきなり」とあります。
あたりまえにも聞こえるので誤解されやすいのですが、
「その時々に応じて自然に適った生き方をする」ということを、
ある厳しさと真剣さを伴って記した言葉だということができるでしょう。

武家社会が確立し、たくさんの新仏教が興った当時、
主義主張の対立も激しかっただろうと思います。
そんな中、ただ純粋に釈迦の仏法を求めて来た明恵上人にとっては、
それぞれの諸説は枝葉のことであり、
むしろ様々な宗派や思考体系を打ち立てることにより、
本来の自然なありようから外れていくことを危惧したのでしょう。
同様に、庶民の生活や、為政者のあり方、また政治をサポートする人のあり方も、
ある決まった考えや流行に左右されず、一人一人が、その場その時にその立場で、
真剣に「あるべきやう」を実践する時に、
自ずと理想的な社会が実現するだろうことを、はっきり予見して、
その通りの生活、一僧侶としての「あるべきやう」を自らが実践していったのです。

社会科の教科書での明恵(高辨)の扱いはとても小さなものですが、
その残したものは甚大で、明恵の生き方が
その後の日本の精神構造の骨格を創ったとも言えます。
明恵と親交が深かった三代執権北条泰時は、
鎌倉幕府中興の祖として知られますが、
泰時は明恵を模範として、自らを律した徳政を行ったことで有名です。
泰時が制定した御成敗式目は、初めの武家法であると同時に、
明治以後近代法が作成されるまで、実質的な法律であり続けました。
力を持つものが不当に有利になることなく、
道理をふまえて判りやすく裁きができるようにと作られたもので、
いわゆる「武士道」と呼ばれるような、
自らを律して品格を失わず、忠実に正道を生きようとする日本人独特の気質は、
明恵の生き方が反映されたものと言えなくもありません。

近代では、争いの無い生活を求め、
無所有、奉仕の生活を貫いた西田天香(1872〜1968)という人の生き方が、
ある意味明恵にそっくりです。
明恵も天香さんも、清貧に生き、自然を愛し、
どちらも東洋の聖フランチェスコと喩えられます。
天香さんを慕って集まって来た人たちの生活道場「一燈園」の
生活清規をまとめた「光明祈願」には、
「諸宗の神髄を礼拝し、帰一の大願に参ぜん」
「別に一宗を立てず、単に一派に偏らず、
古今聖者の光を仰ぎ徳を頌し、その遺されたる事業を成就せんことを期す。」
とあります。
天香さんも、有志に推されて
第一回の参議院議員選挙で当選しているので、
政財界の中にも、天香さんの徳に触れて感化された方もあったようです。
目立たないところで、大きな影響を遺した二人だと思います。

気功協会の「あるべきやう」
協会設立と同じ2000年に子どもが一燈園の学校に入学し、
そのご縁で天香さんのことを知ったので、
気功協会にも天香さんの精神が生きています。
私たちは「別に一流派を作るのでも、また、ある一つのやり方に偏るのでもなく、
気功の本質に光をあて、照らし続けていく」ような集まりでありたいと願い、
その通りに歩んできました。

ですから、今生まれて来た
「肩の荷がおりる気功」や「心がおちつく やさしい気功」は、
新しい特別な気功というよりは、むしろ
気功の本源に立ち返ったものと言えるでしょう。

やさしくて簡単なことの実践を通じて、
体がゆるみ、心がほどけ、本来の自然に立ち返っていく。
これからも気功協会の「あるべきやう」をしっかり見据えて、
目立ち過ぎることもなく、着実に、そして大きな力を発揮していきたいと思います。

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