気功学校

気功協会ニュースレター
「気功生活」に連載中

文 天野泰司

生活編を読む

 

 

第十課 手あてする    top    home

 手あてといったら何を連想しますか。
  一般には、病や傷に対する適切な処置をいいます。そして、文字どおりには、手をあてること。少なくとも手あてという言葉が成立した時点では、この二つは同義であったはずです。
 現代においては、どちらも原義から遠ざかっているように思えます。医療の発達によって解決された問題もあることは確かですが、医療に頼り過ぎることで、病人が増え続けている現状を見れば、真の手当とはいいがたい状態です。また、手をあてるという行為も、だんだんに様式が複雑になり、勿体ぶった大層な手当が、特別 な人達により特別なシチュエーションで行われるようになってきました。手あては、元々自然な感応によって行われるものですから、うんうんうなって手から気を送るなどというのはかえって迷惑な場合があります。
 ただ単に無心に手をあてる。そのなかに現代が見失いかけている医療の本質と、言葉以前の豊かなコミュニケーションがあります。
 だれでも無意識に手あてをしています。おなかがきりきりと痛めば自然にお腹に手がいくし、歯が痛ければ、あごのあたりを押さえています。アイタタタ…と、どこかをぶつけたりすると、打った処からしばらく手が離せない感じになります。他人の場合はどうですか、目の前でだれかが急に倒れた。ともかく近くへ駆け寄りますね。言葉がけと同時にほとんどの場合、無意識に身体にふれていると思いますが記憶にありませんか。

思わず
 「思わず…した」という行為ができるかどうかは、生死を分ける場合があります。他の人に救急車を頼んだら、ともかく手をあてたい場所に手あてします。緊急の場合ほど何の予備知識も必要ありません。  ただ、こちらの生命と、相手の生命とが響きあい、相手の生きる力を支えようという勢いがサーッと起こる。手をあててから働きがおこるのではなく、駆け寄ろうと思った瞬間から起こる。では、私には難しいからと腕組みして見ているのはどうか、これは論外です。頭に支配されてはいけません。ためらわずにともかく手を出せば自然の働きというものは生じるのです。
 とっさに無意識の動きができるということを人間は訓練する必要があります。意識というものの働きがとても強いからです。
 意識と無意識のバランスがとれだすと、知らず知らず理想的な健康状態に導かれてしまいます。ですから無意識の動きを訓練する方法は最高の健康法になります。

動静相兼
 では、どのような訓練法があるでしょうか。そうです、気功という素晴らしい訓練法があります。気功の伝統用語では「意気相随」というのがそれで、「動静双兼」というあたりがその具体的な訓練法を示しています。
 意識を一言でいえば、大脳新皮質の覚醒、無意識をひとことでいえば、からだの細やかな感じ、です。頭であれこれ思うことと、からだの感覚とを同調させるというのが「意気相随」です。
 従って気ということは、繊細な身体感覚のことをいい、気は無意識と言い換えても良いと思います。功というのは、技能であり、そのことによって得られる大きな成果 を指しますから、気功というのは無意識を訓練し、その成果を受け取る方法と言えます。
 その、伝統的な訓練方法の第一が、「動静相兼」です。動の中に静を求めると、動作はゆっくりなめらかになり、静の中に動を求めると、じっとしていても闊達な感じで、心身がほぐれてくるのです。
 こうした四文字熟語は、けっこうたくさんあって、便利に使われていますが、文字面 からだけだと中身が想像しにくいのが難点です。それを逆手にとって、これが基本ですよ、これが要領ですよ、これが極意ですよと、なんだかよくわからない四文字熟語を相手の頭の中に放り込んでおくと、自分の力でなるほどという答えを見つけてくることがあります。
 自分で発見するということは、たいへん力になり、貴重なものです。しかし、判る人にしか判らないというのは、私たちが考えている気功とは少し違います。気功はその本質を保ったままに、やさしくわかりやすくしていく必要があります。

自分をなくす
 話を手あてに戻しましょう。手あては、病気を治すというようなものでは毛頭ありませんが、からだの働きを高め、育んでいく技術の最たるもので、その効用は筆舌に尽くしがたいものがあります。しかし、体を育むためだけに用いるかと言えばまたそうでもなく、無意識の訓練としてもたいへんすぐれたもの、つまりそれ自体が気功として楽しめるものです。
 人と人とがコミニュケーションをとるのは言葉だけではありません。むしろ言葉以前にこの人は好きだとか、なんとなく好感がもてるとか、言語以外に伝わるものの方が実際には大きく働いています。言語が意識、非言語が無意識と大雑把に割り切ってもいいです。
 この無意識のコミニュケーション、いわば気の交流というものをいかに深めていくことができるか、ということが言葉以上にたいへん重要なのです。
 手をあてる、それもなんの意識も用いず、ぽかんとして、自分をなくしてしまう。
 もちろん体はあるが、自分という思い込みが一瞬でもフッと消えると、存在そのもの、気そのものが、その根源で共鳴をはじめます。技術ではない、しかし、ただ気持良いだけの遊びでもない。魂が響きあう瞬間というのは、全身が賦活し、生き生きとした力が全身に漲ってくるのです。
 ただ受けるだけでも、ただ与えるだけでもなく、お互いが高まるのが手あての本質です。従って疲れない。異なる気が自然のままに響きあえば、高めあうのです。
 言葉も使いながらに覚えます、手あても、自然体で気楽に行ってみることです。
 そうそう、楽々悠々、これは上達の極意です。

気功生活Vol.15 より 転載   

第九課 息する       top    home

 子宮から左回りに旋回しながら狭い産道をスルリと抜け出ると、広がった肺に空気がワッと入ってくる。呼吸のはじまりは命のはじまりです。そして、呼吸が止まることを文字どおり息を引き取るといいます。また、言葉の響きから判るように、日本人は息することを生きることと同義にとらえていたのでしょう。しかし、息することはあまりにも自然なことなので普段は忘れていることの方が多いですね。

赤ちゃんの呼吸
 すやすやと寝入った赤ちゃんのお腹に手をあててみると、その呼吸の力強さに圧倒されます。その呼吸に同調するようにしてこちらも息をしていると、内側に生命の息吹のようなものがふつふつと沸き起こる感じがあります。まさに気が満ちてくる感じです。その赤ちゃんの呼吸は、息を吸うと自然にお腹がふくらみ、息を吐けばお腹がへこむ、いわば順腹式呼吸です。初心者が順腹式呼吸から始めるのは自然の順の動きですから理に適っています。
 さらによく観察すると、呼吸しているのはお腹だけではなく、全身のどんな場所もやわらかな呼吸をしています。
 呼吸は単に息の出入りだけではなく、体全体の自然の緩急のリズムを作っています。ゆるんでいる部分は自然に呼吸しています。だから、呼吸を整えることで心身が整うのです。
 「自然」ということが呼吸でも最も大切なことです。自然の息とは、いわば充実した赤ちゃんの呼吸。それは何のこだわりも不安もなく、ただ生きていることに全力投球している呼吸。とらわれなく私が私である呼吸と言ってもいいでしょう。
 あるがままの自分に戻れば、自然なままの呼吸が戻ってきます。逆に、自然の息を取り戻せば、赤ちゃんのような気で満たされたからだ、先天の身体に戻っていくことができます。

日常の呼吸
 私たちは無意識に様々な呼吸法を便利に活用して生活しています。
 例えば、「あくび」。これは、からだのゆるみを促進する呼吸ですね。顎関節を大きく開きますから、心も開放され、ホッとでき、頭がよくゆるみます。「ためいき」というのも息をおろしてふさいだ心から立ち直るための呼吸ですから、出る時は自然にため息をついた方がいいでしょう。
 「笑い」もまた素晴らしい呼吸法です。お腹が大きく振動して、息を連続して最後まで吐き続ける。とても楽しい全身運動で、一遍に全身に汗をかきます。笑いには固定した状態を一気に打ち破り転換してしまう力があります。
 おしゃべりも呼吸法の一種ですが、自分が喋っていて発散感のあるときは、相手はそれを受けていてくれる場合が多いですから、マナーと節度が必要ですね。思考が狭い枠の中でぐるぐる回り出してたら、ボケと突っ込み、笑いで解消するのが関西風。  その点、意味のわからない呪文などは思考と切り離して使えるので便利です。お経なども毎日定期的に行う呼吸法だと言えるでしょう。
 怒鳴ったり、叫んだりするのは、エネルギーが行き場を失い閉じ込められている場合の、緊急弁のようなものですから、無理にこらえず、他人の迷惑にならないように発散してください。不要なエネルギーの排泄には禅密功の獅子吼もおすすめです。
 ともかく言葉を発する中には何かが発散され、心身共に変化していく特別の身体感覚があります。
 体育の時間によくやった、深呼吸はどうでしょうか。ラジオ体操などを真面 目にやってみるとわかりますが、一般的な深呼吸は息を大きく吸い込むことに主体があります。意識を覚醒していくにはこれでいいかもしれませんが、身体をゆるめるという意味ではもう少し工夫が必要ですね。

呼吸で気をつけること
 呼吸法や観想法、そして身体技法を行っていくためのベースはからだのゆるみですから、逆にこわばるようなことをしていたのでは何をしているのか判らないばかりか、反って身体を壊すこともあることは知っておいて良いでしょう。
 ゆるみが不足したまま不自然な練功を続けて身体を壊すことを、中国語では、おだやかに「偏差」と言っていますが、意図的に習慣化してしまった心身の枷は思ったよりはずすことが難しいものです。
 呼吸法のように心身にストレートに響くものは、なおさらその影響が大きいので、無理な呼吸法を習慣化しないように気をつけて下さい。
 まずゆるみからスタートすることと、自然な気功と不自然な気功を見分ける目は常に必要です。

昇降呼吸と開合呼吸
 では、呼吸の練習を少しやってみましょう。目的は動作と呼吸の無意識の一致。全身の運動と呼吸との自然な連動を作っていくことです。吸う吐くをあまり厳格にせず、気付くと自然にそんな呼吸になっているというのが理想です。気張らず、楽々とやってみましょう。
 楽に自然に立った姿勢から、ゆっくり両腕が広がり、肩の高さまで上がってきます。続いて肩肘が落ち、同時に腰と膝がゆるみ、ゆっくり腕が下りてきます。呼吸はどうなっているかを確かめながら、何度か繰り返し昇降します。
 今度は開合です。手を胸の高さ正面に上げて、肩肘をゆるめたまま左右にゆっくり広がっていき、ゆっくり閉じていきます。呼吸の感じは昇降と同じですね。
 自然呼吸は、ただ適当に息をしているのではなく、身体の自然のリズム、自然の緩急の動きにぴったりと呼吸が合っているということで、実に奥が深い呼吸です。
 吸う中に集中があり、吐く中にゆるみがあり、その自然のリズムの狭間に無限の変化が秘められている。技術に終始すればその技術の範囲を出ないが、自然に帰れば、無限の宇宙とつながり出す。
 そこに息することの醍醐味も、気功の本質もあるのです。

気功生活Vol.14 より 転載   

第八課 笑う       top    home   第10課へ

笑いの門
 中国のお寺に行くと、その入口には割腹のよい彌勒仏がどっしりと腰を据えて満面 の笑みをたたえています。なぜ入口に彌勒仏なのでしょうか。禅密功の始伝者劉漢文先生の話によると「仏の道を歩むならまず笑いなさい、笑うことが一番初めの関門ですよ」という意味が込められているのだそうです。
 気功も、まず微笑むことから始まります。では気功をする時になぜ微笑む必要があるのでしょうか。

免疫系の変化
 笑いの研究では、柴田病院の伊丹仁朗先生の研究が有名です。伊丹先生は、様々な実験の結果 、笑うと人体の免疫活性は上昇するということを科学的に実証されています。さらに興味深いことには、本当におかしくて笑ったのではなくて、ただ笑った顔をしているだけで、免疫活性が高くなっているのです。ただその中に一例だけ例外があったそうで、その人は額にしわをよせたまま一生懸命笑おうとしていたそうです。
 伊丹先生は、癌などの難病や人生の困難を乗り越えるために、笑いや、積極的な心の働きを活用した生きがい療法を実践し効果 を上げています。
 笑うことで癌もなくなるといえばちょっと誇張した感じに聞こえますが、笑うことで免疫活性が上がるのであれば、笑うことで癌がなくなるというのも科学的な根拠のある話だと言えます。

笑いのメカニズム
 あなたは、笑おうと思ったら今すぐ、その場で笑えますか。試しに笑ってみてください。へっへっへっというのは何か下心があるようでいけませんね、ハッハッハッと素直に、できれば豪快に笑ってください。
 また、泣こうと思ったら今泣けますか。怒ろうと思ったらすぐ怒れますか。
 泣こう、怒ろうと思っても、具体的に悲しむべきことがなくて泣くのも、怒るべき対象がなくて怒るのもとても難しいことです。これらは本来緊急用の心の働きで、悲しければ泣き、腹が立てば怒ってしまえばスッキリする。どちらも感情の働きを調整する作用の表出ですから、何もないところに悲しみは生まれず、何もないところに怒りは生まれません。
 笑うのはどうでしょう。笑うのは何もなくても自然に笑えます。ただし、特別 なとらわれがなければ、ですね。
 大声でワッハッハッと笑えた人はなかなかの自然人です。ちょっと微笑むぐらいなら簡単ですね。自然なままに余分なとらわれがなければ素直に笑えるわけです。
 そう、笑いというのは自然なままのいわば中性的、ニュートラルな感情で、身体内部のエネルギーが純粋な形で発露したものと考えることが出来ます。
 エネルギーというのは貯えればいいかというとそうでもなく、お金が沢山あり過ぎるとそのことで悩むのと同様、余るとかえっていろんな病気になったりして悪さをしだすのです。足りなければ補うが、余れば捨てる必要がある。ちょうどよいのが一番で、過剰なものはよくよく注意しないとみな毒になります。
 笑いは自然なエネルギーのバランス調整なのです。身体の余ったエネルギーが笑いの純粋なエネルギーに昇華されます。腹を抱えて笑うと、お腹が大きく振動し、内臓も活発に動き、汗が出て、心身共に解放されスッキリ爽快になります。ですから、ダイエットにも笑うのがとてもよいのです。
 また、エネルギーが不足している場合には笑うことでエネルギーを取り入れようとする働きが活性化します。どんな状況でも流れをよくすれば自然に戻っていく力が働きます。ためることに執着しない、無いからといつて過度に惜しまない。体というものは使うことで丈夫になるのですから、外からかばい過ぎないことも大事な嗜みです。

笑いは伝染する
 ところで、大勢の中で一人がプッと吹き出すと、周りの人もつられてつい笑ってしまいますね。笑いというのは一種の波動ですから、周りに伝わっていく力を持っています。難しい気功は知らなくても、いつも笑っている人がいれば、その人は自分で練功もし、その効果 を周りの人にもどんどん伝えていることになります。
 同じ電車の車両の中で、一人怒っている人がいると全体が険悪な雰囲気に包まれます。いつもいつも腹ばかり立てていると、自分だけではなく、周りの人も大変です。行き場が無く圧縮されたエネルギーはどこかで噴出してみんなに影響しますから、どうせなら腹の底から思いっきり笑い、全てを解放してしまいましょう。
 気功をするのでも、笑いのない練功は あまり感心しません。笑いは自然度のバロメーターのようなもので、笑いのある練功は楽しく自然に即したものだと言えます。笑いのない練功、辛く苦しい練功は昔の精神鍛練のようなものですから物好きな人にはいいですが、あまりお薦めはしません。
 気功というのは、ただ効果があるだけではなくて、気功をすること自体が楽しみと喜びに満ちているというのがその大切なポイントなのです。

笑いは気功
 気功をする時に微笑むのは、心身のゆるみを簡単に実現するためでもあり、身体のエネルギーバランスをとるためでもあり、またいつでも自然な通 りの良い状態にあるためでもあるのです。そして、もっと積極的に禅密功には笑う気功というものもあります。
 劉漢文先生に習った笑うためのコツはおへそを動かすこととお花が咲くイメージ。 そして、赤ちゃんが生まれ落ちる時の第一声。「笑いは先天のもの、みな喜びながら生まれてくる」、そして「一切のものに笑えば、万事がうまくいく」のだそうです。
 笑いは、老若男女、万国共通の原始の自然な波動なのですね。笑えばゆるみ、ゆるめば笑う。笑い即気功。気功即笑い 。
 底なしに暗い時代から底抜けに明るい時代へ、気功で万人の自然感覚を取り戻し、平和で心身共に豊かな未来を切り開いていきましょう。ハッハッハッハ。

気功生活Vol.13 より 転載   

第七課 座る       top    home   第9課へ

座の文化
 日本の文化は座の文化。お茶やお花を引き合いに出すまでもなく、ひと昔前までは、座るといえばだれでもあたりまえに正座をしていました。それはちょうど、日常の生活空間にあたりまえに畳があったのと同じように。
 畳があると、子どもは自然に正座で遊んでいます。そのちょこんと座っている美しさはなんとも言えず見るものの魂を打ちます。安定感と適度な集中感があって、上体からはちょうどよく力が抜けていて、本当に無邪気で明るく楽しそうな感じがする。まさに気功態です。正座は日本人の体に適した自然な座り方と言えるでしょう。そして座ることはそのまま日常的な気功になっていたにちがいありません。
 座れば力の焦点が腰に定まり、体は自然に安定し、整います。正座の体勢は集中力と主体的な行動力を引出すのに好適です。
 現在は、むしろ畳の部屋の方が少ない。畳の会場をさがすのもいつも一苦労です。学校も畳に文机だといいと思うのですが、ぜひとも全国津々浦々の学校に畳を入れてもらいたいと思います。正座で集中することもできれば、ごろんと横になって休むこともできるというように、畳の生活はゆるみと集中の幅がとても広い。
 先日面白い実験をさせてもらい、最近の若者は何であんなによく人にぶつかってくるのかがわかりました。彼等は「なんて無神経な」と思われがちですが、言われるほど無神経なのではなく、本当に鈍いだけなのです。わからないのだから悪いとも思わない。でも鈍いままでは困りますから、感覚をよく働かせる訓練が必要ですね。
 五メートルぐらい後ろから、誰かが拳を振り上げて殴り掛かろうと近寄ってくるとします。その時、頭に気が上っていると殴られるまでほとんど気付かないのに、腰に気が落ちていると、五メートル後ろでも、拳を振り上げようとした瞬間に殺気を感じて振り向いてしまいます。この違いには本当にびっくりしました。正座と同じ腰に集中する体勢になると、一瞬にしてまわりの気配に敏感になる。畳と正座の生活が、奥ゆかしい日本の文化を育み、お互いのこまやかな心配りを楽しむことを可能にしてきたと言えるでしょう。
 現代は身体の感覚が鈍ったまま、その形式だけが残っているために、窮屈で堅苦しい感じがするのですね。形骸化といいますが、中身を味わうことができずに形を保とうとすると、その形自体も歪んでいきます。そのため「形だけなら無い方がよっぽどまし」というしきたりや慣習や儀礼が、今の生活空間にはたくさんあるのです。
 「本腰を入れる」と思っても「本腰」が入らない。それはよく言われる精神論ではなくて、具体的身体の問題、西洋的ライフスタイルの模倣によって失われつつある身体感覚の問題なのです。
 まず簡単にできるのは、子どもたちが自然に正座できる環境を整えることです。大人の場合は、正座しても気持よく座れない人が多いので、重心を下に落とすことからはじめ、自然体を取り戻しながら次第に座ることを楽しんでいくといいでしょう。
 大人が簡単で子どもは難しいと思いがちですが、身体の面から見ると子どもの方が簡単で大人が難しい。子どもが難しくなっている背後には必ずといっていいほど大人の影響があります。子どもは素直です。自然な環境があればすぐに変化します。大人は自分の思い込みで変化を恐れ、自然を乱す。子どもが子どもらしくふるまえない、子どもの大人化は大変な問題です。

座ることに執着しない
 座ることに話を戻しましょう。
 気功で座るといえば、一般に静功をイメージします。動功に対する静功ですね。外側からみて動きがあるものと動きのないもの。しかし、動功と静功は、厳密に区別 できません。気功は常に動と静が同居している状態、動静双兼をその旨とするからです。大きな動きの中にも静けさがあり、静止した中にも躍動がある。自然を求めていくとそのようになります。従って、座る中に求めるものもまず第一に自然です。
 重たい頭を支えるには、背骨を支える筋肉の発達が必要ですが、それ以上にバランス感覚が重要です。バランス感覚が発達すれば長時間楽に座っていられます。背骨を安定して立てるための微妙なバランス感覚、それこそが安定して座るための前提条件です。では、自然に立つことと自然に座ることとはどう違うのか。
 座ることのメリットは足のことを考えずに済み安定感があることです。デメリットは腰が動きにくく移動しにくいことです。そのため、せっかく座っても、足のことが気になり出すと、そわそわしてきて、何のために座っているのかわかりません。
 私は足を組んで座るのが大の苦手でした。そんな場合はみんなに合わせて一生懸命座るのではなく、自分に合わせて工夫することが必要です。
 安定することが目的なら、立った方が楽な場合もあるし、足を組まなくても椅子に腰掛けることで充分目的を果 たします。膝や股関節に異常がある場合には、足を組んでもただ辛いだけで、先に膝や股関節の調整が必要な場合もあります。それでもなお足を組まなくてはいけないというなら、それはもはや気功ではなく、行、あるいはしごきです。自然を取り戻すための気功で、自然が失われてしまうのは考えものです。

自由を取り戻す
 さて、自然に安定して座るためには立つことと同様、背骨の一つ一つが自由であることが大切です。従って座る前には首と背骨が楽に動くようによくゆるめます。
 立つと手足を動かすことで動いたつもりになれますが、座ると背骨の動きがごまかせません。また、腰の位 置が固定している分、背骨の動き、内面的な動きは小さな動きでもはっきりします。背骨は呼吸と共に様々に動き、背骨全体も上下に伸び縮みしています。
 ともかく、生きている自然な体には常に動きがあります。その自然な動きを自然なままに保つことが気功の役割です。入静の深い境地も求め過ぎなければ自然に出会っていくものです。いつ、どこで座っても、自然であれば、それがそのまま気功。

 執着を離れ、生活を離れないのです。

気功生活Vol.12 より 転載   

第六課 動く       top    home  第8課へ

のびやかに動く
 人はなぜ眠るのか。それは、よりよく動くためです。人は動くことで丈夫になり、動くことで新しい能力を身につけていきます。しかし、無理に動き続ければかえって体を壊す。要は、動いた後に休めること、さらに動きそのものの中にゆるみを持つことが大切なのです。
 心身をゆるめて動けば、中心のあるしなやかな力が自然に働きはじめます。やわらかで力強く、のびのびとした気持のよい動きです。
 のびやかな自然の動き。気功のファーストステップも、ここから始めていきたいと思います。
 世間一般の「気功の第一印象」は、のびやかというよりは、むしろ、もっと静的、内求的な印象があります。また、特別 な能力を創り出すための特別な訓練と誤解されがちです。しかし、気功は自然の原理原則に戻っていく技術であり、またその過程そのものです。
 窮屈で内に籠りがちな社会だからこそ、まずは、のびやかな自然の動きを取り戻し、肉体も精神も一度開放していくことが必要です。特別 な工夫をあれこれ加えていく以前に、身体の自然の動きを取り戻しておくことが大切なのです。

まず何になじむか
 人間はどんなことにでもなじんでしまう特別な学習能力を持っているので、精神的にも肉体的にも様々にとらわれ、身動きが出来なくなってしまう傾向があります。心身が慢性的に病んでくるほとんどの原因は、こうしたとらわれの状態、つまり自然からの乖離だといえます。
 物やお金がかえって苦しみを生むのと同じように、特別な訓練を積めば積むほど、からだを壊し、心を蝕む。そうした例が巷にあふれる健康法や精神修養法には驚くほど多い。気功も例外ではありません。  
  ではどうすればいいか。まず自然の動きになじみ、そして自然の感覚になじむこと。ここから始めれば、間違いはありません。繰り返しになりますが、初めに何をするかということはとても重要なことです。

 自然なものに先になじんでおくと、無駄な苦労がなくなります。例えば、眉間にしわを寄せたまま座り続けていれば、その情報が体になじみ、定着します。これは自然ではないですね。人相の悪い人をつくる特別 な訓練だといえます。同じ座るなら、眉間にしわがよるような硬直した身体をまずゆるめ、ほがらかに微笑んだ自然な状態で座った方がいいですね。

ブラ下げて振る
 だれでも簡単に体験できる自然の動きは、おそらくぶら下げ型の動きです。気功で言えば腕をブランと振るスワイショウ(用 手shuai shou)がその代表選手です。 前後のスワイショウが一般によく知られていますが、動きののびやかさからいえば、捻り、左右、そして交互のスワイショウがオススメです。東京の出口衆太郎さんに教わったものですが、この四つのスワイショウは気功の初めの一歩として最適です。

ブラ上げてゆらす
 もう一つの自然の動きは、ブラ下げに対して、ブラ上げ型の動きです。ブラ下がっているのと同じようにゆるんだ状態を、下から順にゆらゆらと積み上げ、微妙なバランスの中で立っている感じ。禅密功の背骨の動きがそれです。こちらも前後、左右、捻りと自在な動きの四種類の基本の動きがあり、背骨の波動が全身のあらゆる部分にのびやかに広がっていきます。
 ブラ下げると力まずに自然にゆれるのと同様、ブラ上げれば、力まずに自然にゆれます。禅密功の三点一線という立ち方は、端的に言えば背骨のブラ上げの要求です。
 この二つの自然動だけでしばらくは遊べます。自然で心地よいものはなかなか飽きがこないもので、本当に長く楽しめます。

ゆすり
 もう一つ簡単な自然動をあげるとすれば、最も単純な振動、ゆすりです。一言にゆすりといっても千差万別 でとても広範囲なものですが、それだけ原始的で多様なひろがりのある動きだといえます。  手首、足首などの関節に対しては、前後、左右、捻りの各振動をつくることができ、全ての動きが細かく楽々できることが理想です。ゆすり難いところは鈍っているところ。そして楽々ゆれるようになればほぐれた証拠です。
 全身の振動としてやりやすいのは、重力方向に細かく上下する、上下のゆすり。そして、背骨の中心軸にからみつくようにして細かな捻りを加える、捻りのゆすり。前者の代表例はいわゆるビンボウゆすり。身体各部をゆるめていくのに効果 的です。後者の代表例はイヤイヤ。背骨そのものをゆるめるのに効果的で、感情面 も含め全身を開放します。からだが自然にやってしまうことは、みんな自然の自己調整です。
 横に寝ころべば、重力方向から開放されるので、金魚運動のような左右のゆすりもやりやすくなります。最近はそのための機械まであるそうですが、扇風機がどんなに改良されても自然の涼風とは比較にならないように、機械的な刺激というものはかえって身体を鈍らせます。どうせ何かを利用するなら、操体道普及友の会の中川重雄さんのように「バスで山道をゆられ、おかげで体が整ってしまった」というふうに、タナボタ式にいきたいと思います。  薬でも、機械でも、また自然療法であっても、依存すればその人の力は奪われてしまいます。くれぐれも御用心を。

 ゆすり、スワイショウ、背骨の波動。これに伸び縮みの運動を加えると、ほとんどの動作は自在になります。
 まずは伸びやかに、さらにできるだけ力を抜いて、省エネで動きます。「動きが気功らしくなってきたな」というのはひとまずは省エネが進んできた証拠です。しかし、中心がなければ伸びやかで美しい感じはでてきません。
 自然の動きには常に適度な心地よさと内からあふれ出る美しさがあるものです。

気功生活Vol.11 より 転載   

第五課 眠る     top    home   第7課へ

動物の眠り
 春眠暁を覚えず。おだやかで気持のいいまどろみは、からだがゆるんで、広がってくる印。眠りという運動はゆるみの極みを含むために、私たちの心を引き付けてやまないところがあるのです。
 ヒトは普通横になって眠ります。立っていれば、体重を支えなければならないので当然のように思いますが、象やキリンは立ったまま眠ります。四つ足だからそうというわけではなく、多くの鳥は片足立ちで眠ります。イルカは脳の左右半球ずつ交代で眠るそうです。水の中で完全に眠ってしまったら呼吸ができなくて困るのですね。
 睡眠時間の方は一日のうち二十時間も眠るオオナマケモノを筆頭に、二時間ほどしか眠らないウマまで千差万別 ですが、一回の睡眠時間は、比較的長いイヌやネコで約一時間。ハムスターなら十分そこそこです。
 こうしてみると、仰向けに寝転んで長時間ふとんにくるまっている方がむしろ特殊です。しかし、大脳が発達した人間の生活にとって、眠りはなくてはならない大切なものです。

無意識の階段
 眠りの中で大切なのは潜在意識のクリーニングです。大脳がひと休みしている間に、身体各部の自然のネットワーク、いうなれば本来あるがままのつながりあいを回復していきます。それは身体内部で完結せず、地球や天体など自然界とのつながりも取り戻していく過程です。
 眠りにつく瞬間は意識できません。ほんの一秒ほどの間に意識のスイッチが一斉にオフになってしまう。ここからは無意識。潜在意識の働き出す時間です。
 みなさんご存じのように、眠りにはいくつかの深さの違いがあります。一番浅いレベル、ウトウトした感じの眠りがいわゆるレム睡眠。そこから、階段を下りていくように、およそ四段階の眠りの深さがあり、グッスリ、スヤスヤと眠っている最も深い眠り、からまた、階段を上るようにして、ウトウトした浅い眠りに戻ってきます。およそ九十分のサイクルで浅い深いのリズムを繰り返し、最も深いレベルの眠りは、寝付いてからおよそ三時間ほどの間に集中して現れます。こうしてみると無意識にもいくつかの深さの違いがありそうです。
 無意識の深層に性的な働きがあると考えたのはフロイトで、最深層に集合的無意識を想定したのがユングですね。性というのは種族保存の欲求ですから、個人を越えた、つながりのエネルギーとも言えます。
 生のはじめに性があることからすると、先天のエネルギーというものも性と直接につながっています。それは単に男女が惹きあい恋しあう強力な親和力というだけではなくて、バランスをとって存在している陰陽全てのものが微妙に溶け合い流動している動きそのもの、と考えた方がよいでしょう。例えば、他人のため、世の中のために動きたい、という欲求もごく自然な性の働きの一部分です。
 そうした大自然の流れの一部として具体的な性があり、その性がまた、心の動きをつくり、心が身体の動きを制御している。そう考えると、身体を整えるには心を、心を整えるには性を、性を整えるには宇宙、自然界そのものを整え、それと響きあっていくことが必要ということになります。
 その全てにわたる自動的な修復装置が元々備わっているとすれば、それは眠りにちがいありません。
 正夢とは眠っている間におこる予知能力ですが、未来を予見するのは、集合的無意識とリンクしている証拠ですね。ちなみに空想と正夢は後頭部で見分けるそうです。普通 に夢を見るときは後頭部がゆるんでいるのに、正夢の時はきちんとしている。
 寝返りは当然のことながら身体の自働運動。そして夢は大脳レベルの自働運動ですね。過剰エネルギーや心身の余分な緊張があると出てきますが、その間、眼球も小刻みに動き、大脳も活発に活動しています。

眠りとホルモン
 睡眠中の働きには起きている間にはない特別なものがいくつもあります。
 寝る子は育つとよく言われますが、子どもはグッスリ眠る時間が長く、その深い睡眠の間に脳下垂体から成長ホルモンが分泌され、本当に寝てる間に大きくなります。大人では、身体の修復や疲労回復、つまりほころびた部分のメンテナンスです。
 最近特に注目されているのは夜のホルモン、メラトニンです。メラトニンは松果 体でつくられ、暗くなると血中に放出され、強い光を浴びるとなくなります。米国では抗鬱剤として薬局で手軽に買えますが、言ってみれば誘眠剤。本来は眠りと目覚めのスイッチ、太陽のリズムを感受するものとして機能している大切なものです。
 どちらにしても深い眠りにはメラトニンが欠かせません。やはり夜は暗くして寝、朝起きたら太陽の光を浴びた方がいいですね。生活リズムの乱れが眠りに及ぼす影響は想像以上のものです。
 深く眠れさえすれば心身共に自然に元気になってしまうのですから、あれこれ悩むより、ライフスタイルそのものを積極的に改善してみる方がいいかもしれません。

眠る気功
 眠る気功というものを、二〇〇一年の九月に初めて習いました。その第一原則は身体のリラックス。ここではちょうどよくバランスをとるという意味ではなく、完全に楽にゆるめてしまうことが大切です。
 第二に、頭部の情報の出入り口を開くこと。つまり脳と外界との情報のやり取りを自由にすること。
 第三に、身体の陰陽をあわせること。つまり片方に偏りやすい身体内部の情報が自由に行き来できる状態にすることです。
 これらの条件がそろうと最も深い睡眠のレベルに一気に到達し、下腹部の中心に熱感が生じます。この身体反応のスピードからすると、ホルモン系統の反応と呼応しているように思います。
 ともかく深く眠れば心身の疲労は一気に抜けてしまいます。もし疲労回復が目的なら、いかに眠りを深くするかということにさえ気をつけておけばよいのです。しかしその深い眠りの中に、自然とつながりあうこと、言い換えれば霊的な調和と元気回復ということも、予め含まれているのです。
 では、からだをゆるめて、ゆっくりとお休みください。

気功生活Vol.10 より 転載   

第四課 立つ      top    home   第6課へ

はじめの一歩
 はじめから立って歩ける人はいません。生まれた時はうつ伏せにすればうつ伏せになったまま、仰向けにすれば上を向いたままで、首を持ち上げることも、寝返りを打つこともできません。
 私たちは当たり前のように立って、いろんなことができますが、ニ本の足で立つということは、人間の成長過程で獲得する能力の中でも実に驚くべきことの一つです。
 気功の一歩もまず立ち方から。自分が立ち上がって歩き出した時のからだの記憶と感動をもういちど味わってみましょう。

自立
 他の動物なら、生まれて暫くすると自分で歩いたり、走り出したりするのに、ひとは歩き出すまでに一年もかかります。いわば「完全なる依存」の状態で生まれてきて、一つ一つ自立の準備を進めていきます。
 赤ちゃんは、全身のあらゆる感覚を働かせ、自分の手探りで、毎日何か新しいことができるようになります。こうして獲得していく一つ一つの能力は生きていくための本物の力になります。ただし、まわりの大人が安易に手助けしたり、抑制したりしなければの話ですが。
 赤ちゃんは、身の回りにあるありとあらゆるものを触りつくし、嘗めつくし、穴が開くほどに一つの物を見つめ続け、味わいつくす。その、自分で確かめるゆるぎない実感こそが自立への足掛かりなのです。私たちは日常の生活の中で、自分の感覚を本当に使っているかどうか確かめてみる必要があります。
 ではこれから自立、つまり自ら立つということの感覚を味わってみましょう。

静中の動
 ちょうど、あかちゃんが初めて2本の足で立ち上がるように、どうすれば立てるかを白紙の状態から全身の感覚を使って探りながら立ってみます。腹這いになったところから、ひとつひとつ手探りで、できるだけゆっくりていねいに。
 何か発見がありましたか。いつもと少しでも違う感覚があれば大収穫です。
 はじめは緊張が強いですから、納得のいくまで、何度も繰り替えしてみるとどんどん余分な力が抜けて、自然な立ち方に近づいてきます。でも反復練習のようになってしまうとまた違いますね。同じようでいて、その都度、その都度、新しい発見があります。かといってあまり神妙に構えず、気楽に探ってみてください。ていねいに立ち上がってみれば、少なくとも立つということの微妙さがわかると思います。
 立つということは、静止しているかのように見えて、実に様々な無意識の微妙な動きを内包しています。いわゆる「静中の動」です。生きている人間は動きがあるから安定して立っていられるのです。酔っぱらって意識が無くても、立っているし、自分の家まで歩いてたどり着いてしまう。
 この内部の動きが止まると、ちょっとの力を加えただけでバタンと倒れてしまいます。二本足の人形を安定して立たせる危うさと同じです。
 コマはよく回っているほど安定して立っています。自転車は走っていれば安定して立っています。しかし、静止したコマを真直ぐに立てたり、自転車で止まったまま立っていられれば既に曲芸の域です。
 人間が立っていることは外見上の動きはありません。つまり、だれでも曲芸的な技術を日常的に使って暮しているということになりますね。難しい技術をあれこれ工夫するより、そうした自然の働きに気づいていく事が大切です。

背骨を自由にする
 安定して立つというのは、姿勢や意識の問題も大いにありますが、常にバランスを取りながら自由に動いている、あるいは自由な動きが内在しているということです。
 そのことを最も端的に実践しているのは、おそらく禅密功の立ち方です。
 どの気功も心身のゆるみと自然な動きを大切にしますが、禅密功では安定して立つための自由な姿勢が、なんの飾り立ても、また特別 複雑な要求もない「素のまま」の状態で体験できます。
 禅密功の中心課題は背骨の解放です。背骨が自由になると、動きは一変してなめらかになります。
 背骨が自然に動く位置は、重心がちょっと後ろ寄り。普通の感覚だと最も不安定な感じがするポイントです。頭のてっぺんから尾骨の先までスルリと一本のやわらかな紐がぶらさがったような感じになると、おだやかな動きがいつもそこにあります。この空中に背骨が無重力で浮かんでしまったような千変万化の姿勢が、禅密功の安定姿勢です。
 二本足で立った人間のみが獲得した微妙なバランス感覚。それは、背骨に新たな負担や偏りを与えた反面 、背骨の解放を伴って、からだもこころも自由な大海原に解き放つことを可能にしました。
 冥想の姿勢は、ゆるんで動きがあるほどいいですね。動いているのか動いていないのか、意識なのか無意識なのか、有るのか無いのかわからないようなちょうどよい動きがうねりのように続いている。その穏やかな水面 の上にプカンと浮かんだように、心の焦点が自然と定まる。
 冥想に特別な様式はいりませんが、背骨がゆるんでいることと、有と無の間にただようような微妙な感覚を楽しもうとする心は必要でしょう。
 気功態で立つ、つまり気功をするときの身体感覚を持ちながら立つということは、そうした微妙な冥想状態にあるようなものです。でも、それも特別 なことでは無くて、昔の人は日常的にそうした体の使い方をしていたし、心も豊かだったと思うのです。

 気功は自然に還るための便利な道具。ただ立つことからも様々な気づきが生まれ、気づきは私たちの体、心、魂を大自然の悠久の流れの中に連れ戻してくれます。

気功生活Vol.9 より 転載   

第三課 手のひらの宇宙   top    home   第5課へ

頭のチャンネル
 気功をする時に一番邪魔になるのが、日常的な頭の働きです。先入観と言いますが、ふと、頭に入ってしまったものは、暗示のようなもので、意識ではさがせないし、みつかっても意志の力では取り除くことができません。しかし、その思い込みこそが、心を縛り、体を縛り、あらゆる不自由をつくり出している張本人です。
 テロの構図やテロに対する正義の制裁も社会的規模での思い込みですね。みんな善意の塊で見境のない暴力に走る。人の心は正義とか神聖なものとかに弱いのです。私たちもそうした甘い罠にはいつも気をつけておかなければなりません。自由になるための気功が不自由になるための気功になっていることは意外に多いのです。  

  「からだが弱くて」と口癖の様に繰り返せば、弱いという暗示をコンクリートで塗り固めているようなものです。また「強くなりたい」というのも、弱いということを肯定する暗示です。だからあたまを働かせて対処しようとするとかえって難しい。
 ところが、恐い番組を見ていても、チャンネルを変えるとお笑いだったりしますね。頭の中もそのチャンネルを変えてしまえばよいわけです。そこで、ふだんの意識を転換するための身体技法が必要になってくるのです。
 チャンネルを変えるには潜在意識レベルまで降りていかなければなりません。潜在意識は身体意識と言いかえてもいい。ですから、日常の意識を超えるには、日常と違った質の動きをします。気功の連綿とした動作はまさにそれです。そのコツは頭を働かせず感覚を働かせることです。
 では、日常の意識とはどんな意識でしょうか。簡単に言えばあるものとあるものとをはっきり区別 しようとする働きです。

 ここに重さの違う二つのボールがあるとします。両手にボールを持ってみれば確かに重さが違う。その違いに注目してしまえば日常的な意識が強く働きます。腕の緊張はどうですか。何でもいいですから一度両手に違う重さのものを持って試してみて下さい。比べようという意識の時はけっこう緊張感がありますね。今度はそのまま両手の重さが同じになるように手の位 置や高さをかえてみます。ひとつになった感じがありますか。腕の緊張感はどうですか。意識の状態はどうですか。簡単な実験ですが、気功の本質がこの中に隠されています。
 重さがひとつになった時になんかボーッとしませんでしたか。もう一度ていねいに較べて下さい。この感覚、「入静」と似ていませんか。  識別的な頭の働きが消えると心が静かな境地に入る。その入り口はからだの感覚の変化、運動の質の変化にあるのです。ポイントはひとつになった感じ。つながりあった感じです。  バラバラの動きに美しさはありません。美しいと感じる動きには、自然のまとまりがあります。気功はそうした自然のまとまりのある動きでできています。全身がひとつの有機体として響きあいながら動いている感じです。
 では、そうした自然の美しさを身につけるための手法にはどのようなものがあるでしょうか。まず手始めに、手のひらから始めてみましょう。

手のひらから
 全体のつながりを回復するためには、まず部分に集中します。全体をみようとすると注意が分散し、気が集まらないのです。
 もちろん自然のつながりが回復してくれば、注意の移動と分散も自在ですから、全体をひとつと感じながら、何ケ所もの局部の動きに注目できます。
 はじめから完璧を期してはいけません。どんなに上手な人でも一歩一歩感覚の世界を広げながら歩み続けているのです。必要なのはほんの少しの発見や驚きを楽しみとできる、心の角度です。

 手のひらで開合をします。中心からひろがっていくのが開。中心へ集まってくるのが合。動きが途切れないようにゆっくり開と合をくりかえします。力を入れずに手のひらを開いたり閉じたりすればいいわけです。いつどこでもできます。寝床に入ってやるとよく眠れます。運転中はやめてくださいね。念のため。
 力が抜けないときは、パッと指を開いて、それからフッとゆるめ、パラパラと楽にゆすっておきます。手のひらをお湯につけて温めるのもお勧めです。
 無駄な力を入れないためには、全身のどの場所でも適度にゆるんでいることが必要です。その準備をしておくと、気功の味わいはより深いものになります。そして、味わいが深まれば、さらにからだがゆるむ。ゆるめば、引き締まる力も出てくる。気功が目指すのは変幻自在な弾力のあるからだです。ゆるみっぱなしで力が湧いてこないのは、ゆるんだとは言わず、たるんだと言います。やりすぎはたるみを生じますのでご注意を。

 もう一度手のひらに戻りましょう。ゆっくり開いて… 。ゆっくり閉じて… 。ゆるめて、なめらかに、途切れなく。だんだんに開と合の区別 もなくなってきて、異次元にタイムスリップしたかのような心地よさ。手のひらが開合すれば、全身のあらゆる部分が開合する。細胞のひとつひとつまでもが開合しているかのように。そう、開と合は自然の呼吸のリズム。自然な体ならどの部分にも呼吸があり、開合がある。
 そして開でもなく合でもない、その緩急のはざまに、気功の醍醐味があり、自然との一体感があり、人天合一といわれるすべてと溶け合ったかのような境地が見えかくれしているのです。求め過ぎない、しかし一歩一歩の進退を楽しむ心をいつもそばに置いて、手のひらの宇宙、旅してみましょう。

気功生活Vol.8 より 転載   

第二課 首まわし      top    home   第4課へ

からだの記憶
  記憶には大きく二つの種類があります。頭の記憶とからだの記憶です。気功はこの二つの記憶の橋渡しをしています。
  では、実際に首を回してみましょう。力を抜いて、できるだけゆっくり。
  なれた人なら、首を回そうとイメージした瞬間に気功状態に入ります。初めての人でも、うまく力が抜けて、スローモーションのようにゆっくり回していると、二、三周したところで普段とは違う心身の状態を感覚できます。首がゆるまない人も、繰りかえし回していると自然とぽかんとしてきて、あちこちの凝りや痛みに気付きます。はじめはここまでで充分です。
 凝りや痛みは、いわばからだの警報装置。非常ベルが鳴れば警備員が現場に駆け付けるように、局部の異常感がはっきりした瞬間から既にからだはその解決に向けて働きだしています。
 問題は凝りや痛みではなく、警報装置の故障、つまり無感覚です。はじめの話で言えば、からだの記憶が頭の記憶とリンクしていない。つまり無関係な状態です。
 「なるほどからだはそんなにつらかったのか、それはさぞかし大変だったろう、御苦労さん」ということにならないと、からだはずっと無視され続けたような孤独感に苛まれ、意固地になってしまわないとも限りません。ほったらかしていると、凝りが固まり、内臓や筋肉や皮膚や骨格の動きがにぶり、本当にしこりができます。
 例えば、よく首が回らないと言いますよね。お金の悩み、借金のしこりはその言葉通 り、首の根元に出るのだそうです。

対話の準備
 そこで、からだとの対話が必要になってくるわけです。理想を言えばツーと言えばカー。頭とからだがツーカーになっているのが気功をしているときの特徴です。
 そのためには取り除くべき二つの障害があります。余分なからだの緊張と頭の緊張です。場合によっては緊張を通 り越して、ズルンズルン、ベロンベロンにゆるんでしまっていて大概な場合もありますが、どちらにしても、ゆるむべきところがゆるみ、引き締るべきところが引き締っている。そうした自然な状態を目指します。
 からだの余分な緊張を取り除いて自然にゆるめることを気功では「放鬆」と言っています。一方、頭があれこれつくり出す妄想や思い込みの世界から離れ、心静かになることを「入静」と言っています。この「放鬆」と「入静」も、別 々にあるわけではなく、表裏一体です。「放鬆」と「入静」がどちらとも判別 がつかず、渾然一体となっているところが気功のミソです。気功態といえばこの「鬆静」状態、つまり、心身がほどよくゆるんだ状態をさします。
 首まわしをしていると、この二つのことが、だれでも簡単に出来てしまいます。頭をゆるめるのが以外と難しいのですが、首がゆるめばすぐにぽかんとしてきます。
 力は不要です。楽に倒せるところまで首を自然に倒します。そのまま息を深く吐くと、もう一段ゆるむ感じを楽しめます。頭の重みでぶらさがっている感じです。あとは、ほんのわずかに重心をずらしてやると、ぶら下がっている首はゆっくりと自然にころがりだします。
 「首の一回転がこんなに長い道のりだったのか!」となればしめたものです。痛みもあれば、気持ちよさもある。つっかえたら、無理せず楽な迂回路を通 ります。
 ポイントは「ゆっくり」、そして「くり返し」です。からだの記憶はゆっくり動くことで、はっきり再生されます。機械の読み取り能力(からだの認識能力)が同じだとすると、一、二、三、四と四秒で一周するのに対して、四十秒かけて回せば、単純に考えて十倍の情報量 を感知できます。さらにくり返しまわしていると、回すごとに新しい発見があったり、気持ちよさが微妙に変化していくことに気付いたりします。そうしているうちに、からだの感受性が自然と深まってしまうのです。

落ち着く時間
 現代には「鬆静」が不足しています。
 こころとからだをひとつにして集中できる時間が生活の中からほとんどなくなってしまいました。  おちついてものが考えられないこどもが増えているのは、次から次へと新しいものがめまぐるしく入れ替わる生活スタイルの影響だといえるでしょう。
 たまに新聞を開くと、信じられないような事件の数々。私たちはもう気づかなければいけません。からだの異常な緊張が妄想を生み出し、バーチャルな実感のない空想が、からだの異常緊張を生み出し、堂々巡りしています。
 からだはずいぶん鈍っているので、非常ベルの一斉点検とメンテナンスが必要です。
 私は中学の時、学校で毎朝中国式目の体操(気功)を取り入れていたので、ちょっとした集中の習慣が持てました。小学生の娘も、毎朝始業前に瞑想の時間を持っています。
 気功をするとは、特別なことではなく、日常にちょっとした「鬆静」の時間をつくることです。
 「鬆静」の習慣ができると、からだの膨大な記憶が息を吹き返します。からだは意識と無意識とを具体的につないでいます。道に迷っても、ふと、自らの歩むべき道を無意識はいつも指し示しています。
 からだの記憶は意識できる無意識の世界。その意識と無意識のパイプをつなぐのが気功の醍醐味です。  入口は何でもよいのです。からだと向き合うちょっとの時間をつくり、からだと対話する習慣を持つことが大切です。首まわしなら、だれでも簡単にできてかなりの効果 が期待できます。
 たかが首まわし、されど首まわし。少し慣れたら、広々とした無意識の世界、からだという小宇宙の旅に出かけましょう。

気功生活Vol.7 より 転載   

第一課 いるものといらないもの  top    home   第3課へ

土台
 「気功って何」と聞かれた時に、十人いれば十人答えが違います。また、気功のどこに興味を持って聞いているかによって答え方も自ずと違ってきます。気功の定義は今だ定まらずといったところでしょうか。みんなそれぞれにこれが気功だと言っては便利に使っているところがあります。
 この連載では、先入観のない状態に戻り、またあれこれを隔てる流派や解釈の壁を取り払って、できるだけシンプルな気功の体系をイメージしていきます。
 今私達に必要なのは、生活の全てを生き生きとした、いのちあるものにしていくための共通 の土台だと私は考えます。その共通の土台こそが気功ではないでしょうか。
 「気功の学校」はいわば小学校からはじまります。それも、決まったカリキュラムがあるのではなく、新任の若い先生があれこれ工夫しながら試行錯誤している小さな山の分校のようなものです。
 それでは、気功以前の基本的な問題から始めていきましょう。

わかる
 私たちの身の回りにはたくさんの物やサービス、決まりごとや知識があります。役立つものもあれば、生活を乱しているものもあります。
 重要なのは、いるものといらないものを識別する眼です。自分にとっているものといらないものが判れば、無駄 な消費も自然に減ります。ほとんどが過剰と考えていいので、シンプルライフの流行は歓迎すべきですね。身の回りのものひとつひとつについても本当に必要かどうか再点検してみることをおすすめします。
 人間のからだについても同様で、からだに何が必要で、何が過剰なのかがわかれば自ずと元気になってしまいます。
 しかし昨今は、このキノコが効くと言へばだれもがキノコを食べる。ココアがからだに良いとなると、みんなココアを飲む。みんな右へならへで自分の感じで確かめようとすることがまずありません。
 自分のことなのに人任せなのがおかしいのです。そのことにまた気付かない。集団的な感覚異常といってもいい。生存能力の低下とも言える。生きていくための最も基本的な力が失われているとしたら、これこそが大問題です。問題の本質をすり替えてはいけません。
 何が必要で何がいらないものなのか、直感的にピンとくる感受性を育てていく必要があるのです。
 そうした感受性の教育こそが今本当に必要です。学校教育に気功をぜひ取り入れてもらいたいものです。 発想を変える  栄養ドリンクやサプリメントはかなり疑問です。疲れたといっても、人によってその疲れ方は様々。どんな疲労にも同じ処方というのは考えものです。
 でももっと問題なのは栄養物を補給すればするほど、栄養の吸収力が弱ってしまうことです。繰り返し使えば、さらに強力な栄養剤が必要になります。
 疲労回復にはむしろマイナスの発想が有効です。ほとんどの人が食べ過ぎで、体に負担をかけています。余分に押し込めば、捨てようとするのがからだの自然の働きです。一食抜いてみるとか、素材を工夫して栄養価を落とすといったこともぜひ楽しんでみて下さい。
 からだの感受性が高まれば、食べたい時は食べる、食べたくない時は食べないという感覚がはっきりしてきます。気功歴の長い人は、みんな自然にやっています。感覚が鋭敏になれば、からだにまかせるのが一番です。

自然に戻る
 ところが、自然にまかせる考えと、自然にまかせてはブレーキが効かないという二つの対称的な考えがいつも出てきます。
 これは、欲求に自然な欲求と不自然な欲求の二種類があると考えればよいのです。からだの自然が保たれていれば自然の欲求が働きます。からだが鈍っていれば、自然だと思っている感覚そのものが不自然なものになってしまいます。欲求が欲望に化けてしまったということです。
 そういう場合には自然に戻るための方法が必要になります。積極的な手段としては気功の練功をすればいいわけですね。
 また同時に、からだを鈍らせるものを減らしていくための楽しい努力も必要です。過剰な刺激をさけ、より細やかな変化をたのしむような自然な暮し方にもどればよいのです。
 うちではたまたま5年ほど前にテレビが故障してくれたおかげで、テレビのない暮しを楽しんでいます。なければないで、こどもたちはいろんな遊びを工夫するし、何かつくったり、絵をかいたり、本を読んだり、いろんなことを考えたりする時間ができます。実感としてはテレビはない方が数倍豊かです。特にこどもたちにとっては無いことが幸運でした。画面 中の出来事はこどもにとって現実の一部です。そして映像はともかく人の気を引こうとします。
 買ってよかったのは古い柱時計。ボーン、ボーンとやさしく響く鐘の音が、ふっとこころをなごませてくれます。どこでも時間は同じはずなのに、時の流れがとまり、どこかへタイムスリップしたような感じです。
 自然に戻るというのは、簡単なようでなかなか難しい。しかし注意を集めて動いてみればいろんな発見があって、発見があればだんだんに変化していきます。
 では次は具体的に、首まわしから始めましょう。(つづく)

 気功生活Vol.6 より 転載   

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