気功のひろば
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ブログ

2017.09.12

気功生活 Vol.102

美しい

ふと目がとまり、
気を集め、
我を忘れ、
ひとつになる。

 

【目次】

気功の神髄 天野泰司
養生特集3 夏から秋へ
日月譚 早足紀行
夏の講座レポート
 禅密の学校・前期 季節の気功・葉月
 気功の学校7-8月 七夕てあての会
The Book of Life 7/1、8/28
日本人は死んだらどこへ行くのか 鎌田東二
夏の終りに 吉田純子

 

気功の神髄

天野泰司

台湾の空気
修学旅行の下見に、台湾に行ってきました。気功の学校と禅密の学校、今年も2つのスクール形式の講座が流れていますが、その合同の合宿地として「台湾」が急浮上。良さそうで予約したホテルが高級で、すぐにほぼ全額が請求されびっくり。行かないと判断できない状態になり、さっと2泊で日月潭という湖まで往復しました。(p.10-)
2度目の台湾では、日本ととても近いという感覚、特に精神的な親近感を強く感じました。日台間には現在正式な国交がないにも関わらず、東日本大震災では280億円という多大な義援金が届きました。街を歩くとセブンイレブンやファミリーマートがあって、品揃えも日本とそっくりです。統治時代の名残で、日本語を話す高齢の方も多く、若者にもそれが伝搬しているのか、日本が大好きだったり、日本語を学んで何度も旅行に訪れる人も多く、「日本精神」という言葉も、「勤勉で正直で約束を守る」という良い意味で用いられているそうです。
私たちが忘れかけているような、純粋で美しい心を、台湾の方はよく知っていて、日本という国に家族的な愛情を向けてくれているのかもしれません。
気功でいうと、台湾が日本に愉気(=てあて)をしてくれているような感覚です。「愉気」は一方通行ではなく、必ず相互の気の交流が起こりますから、台湾に興味を持つ日本人や旅行者も増え、日本から台湾への愉気も自然に生じてきているように思います。
 国と国は、利益を護ろうとして対立したり、相手を都合よく利用しやすいものですが、相手を思いやり、お互いにどこか素敵だなと思いながらほがらかで暖かな気持を届け合っていく、いわば愉気の応酬のような関係になっていくのが一番ではないかと思います。その理想的な関係が今、台湾と日本との間にあるような気がします。

平和を支えるもの
平和の礎は、互いを気遣い大切にし合う真心であることは、間違いのないことでしょう。その慈愛のような心は、教科として教えたり、学んだりできるものではなく、人から人へ伝わって、眠っていた思いやりが目覚めていくことで、次々と開花していくものだろうと思うのです。
人間の赤ちゃんは、まったく無防備で生まれ、完全な依存状態のまま一年を過ごします。このことはすなわち、天然の慈愛が人間に備わっていることを意味しています。無償の愛を注ぎ、また受け取る時期がこれだけ長く、完全な自立までに十数年もかかって大切にし、そのことに誰も気づかないほど、大切にされるというのは、ほんとうに素晴らしいことです。
そうして培われた無意識的な安心と信頼、そして慈愛が、親から子へ、子から孫へと伝わっていくだけではなく、身内ではない他人に対しても、思いやりの心が連鎖、循環していきます。
だから、遠回りのように見えても、お産や子育ての自然性を護っていくことが、平和ということの最も本質的な一番の土台になっているのです。次いで大切なのが、家庭という生活空間が満ち足りていること、その次が保育や教育だと思うのです。

争いのない生活
そのことを少し控えめな言葉で表現すると「争いのない生活」になります。一燈園を創った西田天香さんは、「争いのない生活」を求め、徹底した無所有、奉仕の生活を貫かれましたが、それは苦渋に満ちたものではもちろんなく、純粋な愛が循環していく、光に包まれ、光に養われるような、真実の幸福と共にある生活でした。今は、お金や生活のために働くのが当然のようになっていますが、「生活のために働かず」ただ頼まれるままに喜んで働く天香さんの生き方は、当時も多くの人たちの心へ届き、大正10年に出版された著書『懺悔の生活』(春秋社)は一年で120版を数える大ベストセラーとなりました。

自らの中にある争い
人は切羽詰まってくると、つい怒ったり、強引に何かをしようと躍起になったりしやすいものですが、心に生じた切迫感が肉体的な苦しみにつながり、その耐え難い苦しみをなんとかしようとして乱暴な行動が起こります。
この一連のプロセスは瞬時に連鎖していくので、ほとんど気がつかないのですが、まず、その状況が本当に切迫したものなのかを疑い、目の前の状況に対する解釈を変えてみることができます(=リフレーミング)。次に苦しみを続ける必要があるかどうかを疑い、必要のない苦しみはその場でほどいていくことができます(=心身をゆるめる)。そして、その苦しみに対して乱暴な行動が本当に必要かどうかを疑い、選択肢を広げ、最も適切な対応へ昇華させていくことができます(=自然に動く)。

目覚めのための「喝!」が必要な場合もありますが、大部分は、落ちついて必要な対処をする方が、はるかにスムーズに物事が進み有益な結果を得るでしょう。
こうした、人間が持つ自由自在な理解判断力のことを、本当の理性と言うのではないかと思います。この真の理性と、天然の慈愛とが両輪となってスムーズに動き出すと「争いのない生活」は自ずと実現していくでしょう。
 
気功協会の願い
気功は、体の中にある自然の働きを目覚めさせていくもの。内臓諸器官が十全に働くことも、筋肉がスムーズに伸び縮みすることも、病むことも回復していくこともその具体的な現れです。そして、天然の慈愛があふれて幸せに包まれることも、自分の思考や感情、心の動きに敏感に気づいて、自由に最適な道を選んでいくことも、この「からだの自然」の一部です。

弘法大師空海は、著書「秘蔵宝鑰」の中で「三界の狂人は狂せることを知らず、 四生の盲者は盲なることを識らず。 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。」という美しい言葉を書き遺しています。これは、劉漢文先生の言葉で言えば「諸漏漏尽」にあたるでしょう。私たちは悩みや苦しみの尽きない世界に生きている。生まれたと思ったら既にその暗い闇の中にあり、死を迎える臨終の時にも闇は少しも晴れていない。だからもし今気づいて、今目を開かなかったら永遠に輪廻の闇の中をさまようのだと、そう諭しているように私には聞こえます。
私たちは目の前の問題を何とか解決しようと解決策を探し、一生懸命になって頑張ろうとしますが、的外れな動き方が問題をややこしくしてしまうことがあります。例えば、病気を敵だと思い、敵を退治して症状を追い払えばそれで治ったのだと錯覚してしまう。本質をはっきり見れば、症状は体の健全な働き。そのことが判るだけで、心身の不要な葛藤は減ります。純粋に異常に気づくことで、正常な回復機構が働き始めますから、何か大変なことがあるとしたら、脚色や偏見を入れずに、そのままの事実を目を開いてはっきり知ることがとても大きな力になります。

矢部宏治さんの新著『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)がベストセラー1位です。
「朝鮮戦争が今だ終結していない現状で、日本の米軍に対する無条件の戦争協力体勢が、密約という形で隠されて続いている」ということが要旨です。
このタイトルには「はっきり知ってください」という強いメッセージが感じられます。煩雑なことは知りたくない、それも自由な選択です。しかし、今の日本が抱える闇を知ることが、真の解決へ向かう絶大な力となります。大きな闇に気づくことで絶望感や無力感を抱く必要はありません。ただ純粋に気づき、衆知のこととなって白日の元にさらされれば、闇は自ずと消えてゆきます。
空海が見据えた生死を貫く大きな闇も、なんとか乗り越えようとするのではなく、ただ冥い闇の中にあるという真実にはっきり目覚めることで、大きな太陽のような光が戻ってくることでしょう。

私たちは、気功ということを通じて、一つひとつ灯りをともすような作業をしているのかもしれません。心や体、思考、生活や社会、国家の中にも様々な闇が存在します。その一つひとつにちょうどよい灯をともして、ただ自然のありさまを照らし出していくのです。
赤ちゃんに手をあてて気を通わせる。自然の欲求にそって栄養を充足させ、生後13ヶ月間は心身の心地よさを護り、嫌なことや辛いことができるだけないように。病気や成長の節目、大切な時に心静かにしてしっかり気を集める。自立の心が芽生えてきたら、自分でできることは自分でする。体の声に静かに耳を傾ける。疲れたら休み、やりたくなったら動く。一番楽な姿勢で休み、一番楽なように動く。余分な力を抜いてゆるむ。体の感覚を充分に働かせる。体にまかせて気持よく自然に動く。ポカンとして思考のとらわれから自由になる。観念を自由に取り替えられるようにする。体の自然の摂理を知る。余分な努力を手放して夢を自然に叶える。私という枠を越えて天地自然と一つになる。
そうした一つひとつの気遣い、心遣いは、「しなければならない」ものではなく、思わずそうしてしまうもの。「覚えければならない」のではなく、知るとワクワクしていのちが輝き出してしまうもの。「教えるべき」ものではなく、スラッと自然に伝わってしまうものです。今はまだ知る人も少なく、特別なもののように思われがち。だからこそ、できるだけシンプルに、やさしくてわかりやすく、誰でもすぐにできるような形で気功をひもといていくことが大切なのです。

和と自然
気功の神髄は「シンプル」です。
立つ、座る、眠る、歩く、思う、息をする。それら一つひとつの素材を、できるだけ自然の滋味を引出すようにして、手を加えすぎず、必要最低限の味付けで満足のいく幸せな味に仕上げる。いわば和食のようなものです。
「一汁一菜」の最もシンプルな原形に立ち還った時に、あらためて料理の楽しさや食の豊かさに目覚めるように、気功も今、そのやさしい基本へ里帰りする時のように思います。 
           

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