気功のひろば

ブログ

2016.09.01

気功生活 Vol.96

咲く

体がほどけ、
心が開き、
いのちが交わる。

 

【目次】

いのちが咲く 天野泰司
特集 『はじめての気功』
夏の講座レポート
夏の体癖・七夕てあての会
The Book of Life 8/10、8/30
夏の気功
いのちの気功 天へ還った赤ちゃんへ
*ふろく『はじめての気功』特製しおり

 

いのちが咲く

天野泰司

秋の禅密
「禅密の学校」後期が決まりました。
今年は、月例に近い形で禅密の学びを深めていきたい
という思いで4月から日程を組み、
前期は、禅密の基礎を着々と積み上げる、
自由でのびのびとした充実の5日間でした。
その成果を受け、後期は9月、10月の一日講座、
11月に宇治・萬福寺での合宿を予定しています。

黄檗山萬福寺は、中国明代の様式そのままに作られたお寺で、
開山は中国から招かれた名僧、隠元隆琦です。
隠元は禅僧でありながら他宗の教えにも自在に取り込み、
「禅浄双修」の念仏禅や「禅密双修」の荼羅尼禅などを伝え、
煎茶やインゲン豆など、様々な生活文化も日本に定着させました。
先日下見に行ってきましたが、
広々とした境内を歩いたり、ベンチに腰掛けてほっと一息つくと、
日本にいながら中国のお寺にいるような、
どこか懐かしい不思議な感覚になります。

笑いの門
禅密では、「笑いの門」という話をよくします。
大連で研修をしている時、劉漢文先生は
「お寺の門を入ると、一番最初に満面の笑みをたたえた弥勒さんがいます。
仏の門に入るのなら、まず笑いなさいという意味です」
と話してくれました。
萬福寺も三門を入るとすぐ、お寺の玄関にあたる天王殿があり、
四天王に囲まれるように、中央に満面の笑みをたたえた
金色の弥勒菩薩が鎮座しています。
ここで禅密の合宿が実現することに、ご縁を感じます。

宿泊は塔頭寺院「緑樹院」ゆかりの研修施設、
青少年文化交流道場をお借りします。
300畳もある広い道場を自由に使わせていただけるので、
禅密にご縁のある多くの方々のご参加をお待ちしています。
相談中ですが、萬福寺本堂・大雄寳殿での
朝のお勤めにも参加させていただきたいと思っています。
朝課の後は本山のお坊さんたちは禅堂での坐禅修行に入りますので、
静まった境内の気の場のよいところで、凛とした空気の中、
ごく短時間の禅密の瞑想をできればと思っています。

萬福寺では、お経も、中国から伝わった音のまま。
禅密の源流とつながる古代中国への無意識の扉が開く、
貴重な体験になるのではと思います。

前日のレッスンは、
その瞑想への心身両面の準備をすすめるものに、
また翌日のレッスンは、朝の体験を膨らませ、
日常に定着させていくものになっていくでしょう。
本山での研修のような厳しいカリキュラムはありませんが、
質素な修行道場ですので、自由自在な禅密の学びを楽しみながら、
配膳や片付けの手伝い、お掃除など作務的なきびきびとした生活も
心をこめて気持よく進めていきたいと思います。
「薬石」とも呼ばれる精進の夕食は、
ご住職の普茶料理、朝食は粥座です。
一人で作られるそうなので、〆切が少し早めになります。
チラシをご覧になって、早めにお申込ください。

気功とニーチェ
禅密功の特徴は、
いのちの根源から湧き起こるような底抜けの明るさ。
その元々の輝きにたどり着く過程では、人によっては、
険しい山や谷を乗り越えるような体験もあるかもしれません。
しかし、必ずしも苦しい道を歩む必要はありません。
悟りと言われるような、天然の自分にふと気づく体験は、
日常の中に数多くあります。
むしろ、素晴らしい体験を無理に手に入れようとするところに、
自然からかけ離れていく不自然さがあるのかもしれません。

劉漢文先生は、晩年「気功」という言葉に代えて
「動静楽寿」という表現を好んで使っていました。
法輪功事件以降、気功に対する規制が強化されたこともありますが、
気功の神髄を「動く、休む、笑う、そして健康で天寿を全うする」と
さらりと表現してみせてくれたのではないかと思います。

その禅密の心が
『うごいてやすむ 幸福になる気功』(2006年・春秋社)
というタイトルにつながり、
そして今回、装いも新たに『はじめての気功』として、
ちくま文庫から出版されました。
ですから、実は単なる入門書ではなく、気功の神髄、それも
禅密功の中の一番大切な部分をシンプルにまとめた
秘伝書のような性格を持っているのです。

文庫には、鎌田東二さんが解説を書いてくださいました。
西洋哲学の根幹から古事記までの広がりのある内容で、
この本にもう一つの大きな視座を与えてくれるものでした。

鎌田さんの考察は、デカルトの「我思う、故に我在り」という言葉に、
「本当だろうか。理性にそれほどの信を置いていいのだろうか」と
問いかけるところから始まります。
その理性的精神原理を疑ったニーチェは、
1885年に「身体は一つの大いなる理性である」と述べています。
鎌田さんは加えて、
「この身体論的転回が20世紀以降の哲学や文化の通奏低音となっている」、
「身体に対するまなざしと洞察の深さがニーチェにはあった」と書かれていて、
「なるほど、西洋にもこういう人がいらしたのか」とぐっと興味が湧きました。
そして解説は、
「本書はニーチェが読んだら、今こそ西欧にこういう、
『ルサンチマン』から解放される『楽になるレッスン』としての
『気功』が必要だと膝を叩いて喜んだことだろう」と続きます。

ルサンチマンとは、誰かを羨んだり妬んだり、
悪い奴らだというレッテルを貼ったりする
負の感情の連鎖から抜けられない状態を言います。

例えば「もう、あの人たちばっかりいいわね」
「あの人たちが悪いんだ」といった感情を持ち続けていると、
一生懸命に「私はだめなのよ」
「恵まれない」「被害者なんだ」といった
自己否定を続けるのと同じことになり、
自分で自分を苦しめることになります。

「敗戦」というルサンチマン
安保関連法案を強引に通してしまった現在の日本にも
「ルサンチマン」がかなりひそんでいるのかもしれません。
暴力や争いの背後には、自己否定的な影が必ずあるからです。

ある防衛大臣は、宗教家の著作をかざしながら
「戦争は人間の霊魂進化にとって最高の宗教的行事」と発言したそうですが、
宗教的な観念を本来の文脈から切り離して利用し、
軍国化を進めるような風潮が今の政府の底流にあるのでしょうか。
そして、こうした発言の裏にあるものこそ、
「敗戦」という屈辱の中で培われた
強力な「ルサンチマン」の亡霊のようなものと言えるでしょう。

かつてナチスがニーチェの思想の一部を曲解して政治利用し、
非人道的な独裁国家へ向かっていったその同じ轍を踏んではなりません。
ニーチェが望んでいたのは、全くそんなものではなく、
おそらく、「私」という一人が何の権威や思想にも頼らずに、
すっと自らの足で立ち、目で見て、自ら考え、
そうした独立した個人がお互いを尊重し合いながら、
和やかに暮らす平和な世界だったでしょう。

私たちが、禅密や整体や気功という
広々とした身体世界を旅しているのは、
何かはっきりした目的があるというよりは、
むしろ体の奥からの自立を求める自発的な働きにそって、
いのちが向かおうとしているその根源へ、
道を進めているのかもしれません。

気功は、心から自分を大切にし慈しむ、
やさしくて具体的な方法です。
ただただ自分の体にふれて、
ゆっくりやさしくなでて、楽に気持よく動いていく。
このプロセスを淡々と楽しむことで、
「私」をまるごと受け容れられるようになり、
心身の顕著な変化や、精神的な真の「自立」が進みます。
ニーチェが理想とした「超人」とは、
そうした自我を乗り越え、
自然存在としての自分に目覚めた人のことなのでしょう。

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