気功のひろば
こちらは旧ブログです。新しいブログはnoteでご覧ください。

ブログ

2016.07.10

苦痛からの逃避としての信仰

The Book of Life
7/10のテーマは
Acquiring Beliefs to Ward Off Pain

以下、天野の訳です。

—————-

肉体的な苦痛は、神経的な反応です。
しかし、精神的な苦痛は、
自分に満足を与えてくれそうなものにしがみつくことから生じます。
それを私から奪おうとする人やことに対して、恐怖を抱くようになるのです。

精神的な蓄積は、私の満足が妨害されない限りでは、精神的な苦痛を防いでくれます。
つまり、私は蓄積や経験のかたまりだということです。
大きな妨害を防いできた経験の蓄積。

そして、私は妨害を望まないのです。
ですから、私の満足を妨害するものを恐れるのです。
そのため、私の恐れは、既に知っているものです。
私はその蓄積してきたものを恐れている。
肉体的なものであれ精神的なものであれ、
苦痛から逃れ、悲しみを防ぐために集めてきた手段です。

しかし、精神的な苦痛から逃れようとするプロセスが積み重ねられていく
まさにその中に不幸はあるのです。

知識も苦痛を防いでくれるでしょう。
医学的知識が肉体の苦痛を防ぐ助けとなるように、
信仰が精神的苦痛を防いでくれる助けとなると、
だから、信仰を失うことを恐れるのです。
その信仰に対して、現実の完全な知識も、確かな証拠もないにもかかわらず。

私は、今まで押し付けられてきた
伝統的な信仰や信条のいくつかを拒否するかもしれません。
なぜなら、自分自身の経験が勇気と自信と理解とを与えてくれているからと。
しかしそのような、私が求めてきた信条や知識というようなものは、
基本的にみんな同じです。
苦痛からの逃避の手段でしかありません。

——-◆ 訳者コメント ◆——–

精神的な苦痛の裏を返すと、
とりあえずの安心を失うことに対する
絶え間ない恐れがそこにあります。
そのため、精神的な苦痛を避けようとすればするほど、
一時的に不安の影が消えたように思うことはあっても、
内面の不安は大きくなり、
そのために苦痛がさらに増すことになってしまいます。
その根本の構造に気づくことが無ければ、
ともかく応急手当的に何かを信じることによって、
とりあえずの安心をつくろうことが繰り返され、
苦痛が生じたら逃避し、逃避することで苦痛の種が増え、
苦痛が増えればまた妄信の壁を厚くして、
その逃避努力に比例してまた苦痛が増えていことになる。
それが「精神的な蓄積」と呼ばれるものでしょう。
光はその「経験の蓄積」から離れるところにありそうです。
天野

img_04