気功のひろば
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2016.02.11

信じることの向こうへ

The Book of Life
2/11のテーマは
Beyond Belief
以下、天野の訳です。
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私たちの生活は
醜くて、痛みに満ちていて、悲しみに満ちているので、
それらの全てに理由付けするために、
何らかの理論や、何らかの憶測や満足、何らかの教義を求めようとします。

そして、私たちはそれらの言い訳に、言葉に、理論にくるまれてしまうのです。
そうして信じ込んだことは、次第に深く根を下ろし、
揺るぎのないものとなっていきます。
なぜなら、それらの信条の影には、それらの教条(ドグマ)の影には、
「判らないということに対する絶え間ない恐れ」があるからです。

しかし私たちは、その恐れを決して直視することがありません。
そこから目をそらそうとしているのです。
信じることが強くなればなるほど、ドグマも強固になります。

そうした信条というものをよく吟味していくと、
キリスト教でも、ヒンズー教でも、仏教でも、
その信条が人々を分け隔てているということに気づくのです。

おのおのの信条、おのおののドグマには、
一連の儀式があり、一連の強制があり、
それらが人を縛り、分け隔てるのです。

ですから、私たちは何が真実か、何が大切なことなのか、
見極めようとすることから始めなければなりません。
この不幸の中に、この苦闘の中に、この痛みの中に。

なのに、私たちはすぐに信条や儀式や理論のとりこになってしまうのです。

信仰とは腐敗です。
信仰や道徳の背後には、知性、我というものが潜んでいて、
その我が大きくふくれあがり、強力で強靭になっていくからです。

神への信仰、あるいは宗教的な何かへの信仰について考えてみましょう。
私たちは、信じることが、敬虔なことだと考えています。
判りますか。
もし信じないのなら、無神論者だとみなされ、
社会的な非難をあびるでしょう。
ある社会では、神を信じる者を非難するでしょうし、
別の社会では、そうでない者を非難するでしょう。
両者には何の違いもありません。

そして、宗教の中身は、信じることばかりになり、
その信条が精神にそれ相応の影響を与え、活動するので、
精神は決して自由になり得ないのです。

しかしある時にのみ、自由はそこにあります。
何が真実か、神とは何かを、
何の信仰にもよらず見いだした時にです。

あなたが信じているところのものは、
「神とはこういうものであるべきだ」
「真理とはこういうものであるべきだ」
というあなたの考えを投影しているのみなのです。

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