気功のひろば
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2015.12.20

私は知りません

The Book of Life
12/20のテーマは、
I Do Not Know

以下、天野の訳です。
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「私は知りません。」と
語るような状態に本当に至ったのだとすれば、
とてつもない謙譲の感覚がそこにあります。
知識的な傲慢さのかけらも、
何かを印象づけるような
自己断定的な答えもありません。
「私は知りません」と本当に言うのなら、
それは本当に希有なことです。
そのとき全ての恐れは消え失せています。
全ての認識感覚、
つまり記憶の検索ということが無くなているからで、
もはや今まで知ってきた世界への渇望はありません。
すると、大きなことが起こるのです。
もし私が話していることにしっかり付いてきているなら、
また言葉上のことでなく、直に体験しているとすれば、
「私は知りません」というその時、
作為的なもの全てが停止していることに気づくでしょう。
その時、心はどうなっていますか?

私たちは永遠なる何かを求めています。
永遠とは、時間という感覚の中で、
何らかの努力がずっと積み重ねられ、
終わることがないということです。
私たちに関する全てのことは刹那的です。
流れの中にあり、生まれ、衰え、死んでいきます。
そして、私たちは今まで知ってきた世界という限定の中で、
努力継続していく何かを打ち立てようと迷っているのです。
しかし、真に尊いものは、
時間というモノサシの向こう側にあります。
今まで知ってきた世界の中には見つからないのです。
今まで知ってきたことは、思考を通じてしか働きません。
それは何かをしようとする記憶の反応でしかありません。
もしそのことが判り、思考を終わらせようとするのなら、
内在する自然の智慧を働かせて、
自分の思考の動き全てに、はっきり気づいていくのです。
どんなに些細な思考でも、どんなに高尚な思考でも、
どんなに下品で馬鹿げた思考でも、
その根は今まで知ってきたこと、つまり記憶の中にあります。
そのことがとても明瞭に判った時に、
とても大変な問題に直面していながらも、
あなたの心はいともたやすく「私は知りません」と言えるのです。
そう、その答えはどこにも無いのですから。

 

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訳者コメント

これが正しいということは、一つもありません。
それは状況がいつも変化しているからで、
固定的に見えている何かにとらわれた時、
それは神であろうと光であろうと
私たちを不自由につなぎとめてしまいます。
だから一度全て0に戻して、
いつもそこから再スタートします。
天野

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