気功のひろば

ブログ

2017.07.01

幸福か満足か

The Book of Life
7/1のテーマは
Happiness vs. Gratification

以下、天野の訳です。
—————-

私たちのほとんどが、求めているものは何ですか。
私たちひとりひとりは、何を欲しているのでしょうか。

この、休む間もない世の中では、ことさらに
皆が、何らかの平安や幸せや、避難場所を見つけようとしていますが、
いったい何を求め、何を見つけようとしているのですか。

それが判ることがとても大切なこと、
そうではありませんか。

おそらく大部分の人たちは、
何らかの幸せ、何らかの平安を探し求めています。
混乱と戦争、競争や紛争に苦しむ世の中で、
少しでも平安がありそうな避難場所を求めているのです。
これが大部分の人たちが望んでいること、私はそう思います。

だから、ある指導者からまた別の指導者へ、
ある宗教からまた別の宗教へ、
ある師からまた別の師へ、
(避難場所を)求めて、次々と、さまよい歩いていくのです。

つまり私たちは、幸福を探し求めているのでしょうか。
あるいは、私たちが求めているのはある種の満足で、
その欲求の充足を通じて幸せになれたらと思っているということですか。

幸福と満足は、違うものです。

幸福を追い求めることができますか。
おそらく満足は見つかるでしょう。
しかし幸福をみつけることはとうてい出来ません。

幸福は派生するものです。
(求めて得られるものではなく、)副産物なのです。

ですから、
頭や心に莫大な努力や注意、思考や配慮を強いるその前に、
私たちが探し求めているものは何なのか、
それは幸福なのか満足なのか、
はっきり見抜かなければなりません。
その必要が無いと、どうして言えるでしょうか。

2017.06.24

争いの本質的原因

The Book of Life
6/24のテーマは
The Central Cause of Conflict

以下、天野の訳です。
—————–

ただ願うだけで、平和が訪れるなどと考えないでください。
あなたは、日々様々なものと関わりながら、
意欲的に、何かを得ようと、
今生や来世の精神的な安全を願う生活をしていますね。
そのままでは、平和は来ないのです。

平和を望むのなら、
争いや、不幸の本質的な原因を
直覚し、消し去っていくのです。
平和のためにと、外のことばかり考えないようにしてください。

ご承知のように、私たちはたいがい無精です。
(直感的な感覚が)怠けすぎているので、
自らをピタッと把握することも、はっきり判ることもありません。

この無精さとは、まさしく独断的な心の現れです。
だから、誰かがこの問題を解決して、
私たちに平和を与えてくれるだろうと考えたり、
戦争を引き起こしているだろう
一握りの人々をやっつけてしまえ、などと考えてしまうのです。

もし、あなた一人が内に争いや葛藤を抱えているならば、
周囲にも、必ず、不可避的に、争いを造り出します。
自身の内に平和を築くことだけが、
世界全体に、平和をもたらすのです。
あなたが、世界そのものなのですから。

2017.05.23

自我から自由になる

The Book of Life
5/23のテーマは
Freedom from the Self

以下、天野の訳です。
—————–

心というものを、あらゆる色づけから自由にするには、
心のまるごと全部を、思考を働かせずに見る必要があります。

これは難しい問いかけではありません。
ご自身でやってみてください。そうすればわかるでしょう。

あなたは思考を働かせずに、何かを見たことがありますか。
聞いたことがありますか、そしてはっきり見たことがありますか、
思考が次々と反応して働き出さない状態でです。

あなたは、思考を働かせずに見ることなど不可能だと言うかもしれません。
何にも色づけされていない心など、ないとおっしゃるかもしれません。
もしそうなら、その時点ですでに、思考によって
自分を閉じ込めてしまっているのです。真実は、あなたが知らないものですから。

では、私は、(私の心の全部を思考を働かせずに)見ることができるでしょうか。
心が、自身によって色付けされていることに気づくことができるでしょうか。
私は、できると思います。

やってごらんなさい。
あなたは、あなたがヒンドゥ教徒だと気づくことができますか。
科学者だ、経済学者だ、そうしたあれこれにただ気づく。
それが良い、悪いという思考のつぶやきなしにです。
このように、「ただ見る」ということはとても難しいので、出来ないと言ってしまうのです。

何の思考の反応もなしに、あなたの存在の全てに、
あるがままに気づく時にのみ、あらゆる色づけ、条件付けは、
完全に、根こそぎ無くなります。

それこそがまさしく、自我からの本当の自由なのです。

2017.04.30

理由なき熱情

The Book of Life
4/30のテーマは、
Passion Without a Cause

以下、天野の訳です。
________________

何の理由もない熱情のただ中にある時、
そこには、全ての執着から自由な熱烈さがあります。
しかし、熱情に理由があるなら、
そこには執着があり、執着は悲しみの始まりとなります。

私たちはたいてい、何かに執着しています。
誰かに執着し、国に、信仰に、思想に執着し、
その執着の対象が奪われたり、重要性が失われたりすることで、
自分を空虚に感じ、満たされない感じがします。
この虚無感を満たそうと、何か他のものに執着すると、
それがまた熱情を引き起こす目的となります。

あなた自身の、心と頭の中を調べてみてください。
私は鏡に過ぎません。鏡にはあなた自身が映っています。
見たくないのなら、それも全くかまいません。
しかし本当に「見よう」と思うのなら、
自分自身をはっきりと、容赦手加減なく、熱意を持って見てください。
自分の苦悩や不安、罪の意識を解消しようなどと期待するのではなく、
いつも悲しみへと導くこの異常な熱情を理解するために見るのです。

熱情が何らかの目的を持つとき、熱情は強い欲望へと変わります。
何かのためにと抱いた熱情は、
それがある人に対してであれ、ある思想に対してであれ、何かを成し遂げるということであれ、
その熱情からは、矛盾、争い、努力が生じます。
あなたは、ある特定の状態を達成したり、維持したりしようと懸命になり、
また、どこかへ行ってしまったあの人を取り戻そうと必死になったりします。

しかし、私がお話している「熱情」は、矛盾も争いも引き起こしません。
「熱情」は、原因とは全く関係がなく、
何かの原因に導かれた「結果」ではないからです。

2017.03.31

全ての恐れの根源

The Book of Life
3/31のテーマは
The Root of All Fear
以下、天野の訳です。
—————-

何かになろうと切望することが恐れをもたらします。
何かでありたいと思い、何かを成し遂げようとする。
その、何かへの依存が恐れを生じさせるのです。

恐れがない状態とは、
恐れの反対や否定などではなく、
また勇敢であることでもありません。
恐れは、その原因を知れば自ずから止むもので、
勇敢になることで無くなるのではありません。
何かになろうとすることの全てに、恐れの種があるのですから。

モノへの依存、人への依存、
あるいは思想への依存が恐れを育てます。
依存は、無知から生じ、
自らを知らないことから生じ、
内面の貧しさから生じます。
恐れは、精神や心の安定を乱し、対話や理解を妨げます。

自分自身に深く気づくことを通じて、恐れの原因に気づきはじめ、
恐れというものを理解します。
表面的な恐れのみならず、
深い根を持つ恐れや、ずっと蓄積されて来た恐れに対してもです。
恐れには、生まれながらに持っている恐れと、
後天的に身につけた恐れとがあります。
恐れは、過去に関係しています。
なので、思考や感情を恐れから自由にするには、
(過去の結果としての今を見るのではなく)
今を通じて過去を把握しなければなりません。
過去は、いつも現在を生み出そうとし、
これが「私」、これは「私のもの」、「私が」
という自己認識の記憶を作り上げていくのです。

自我というものが、全ての恐れの根源なのです。

2017.02.24

悪の正当化

The Book of Life
2/24のテーマは
Justifying Evil

以下、天野の訳です。

—————-

明らかに、全世界を覆っている現在の危機は、
並外れたもので、前例のないものです。

歴史上、それぞれの時代に様々に異なる危機がありました。
社会的危機、国家的危機、政治的危機など。
危機はやって来ては去っていきます。
経済的な衰退や不況がやって来ては、緩和され、また形を変えて続いていきます。
それは周知のことで、そうした浮き沈みの経過はよく知っています。
現在の危機はそれとは明らかに違う…。そうではありませんか。

その違いは、まず、お金でも実体のあるものでもなく、観念を扱っていることです。
この危機が例外的であるのは、「観念化」という枠組み内のことだからです。

私たちはある考えを巡って争い、殺人を正当化します。
世界中、到るところで、正しい目的を達成する手段として殺人を正当化しています。
それ自体が前代未聞のことです。
悪が悪として認識されていた以前は、
殺人は殺人でしかありませんでした。
しかし今は、殺人が崇高な目的を達成する手段と化しています。
一人の、あるいはある集団の殺人も正当化されます。
殺人者や、殺人者が属する集団は、
人類の利益に貢献するような結果を達成するための手段として、殺人を正当化するのです。

すなわち、私たちは「未来のために」と現在を犠牲にしているのです。
そして、私たちがどのような手段を用いようと、問題ではないのです。
我々の公然の目的、これこそが人類の利益に貢献するような結果を造り出すのだという限りは。

すなわち、こういうことではないですか。
間違った手段が正しい結果を生み出すと考え、
間違った手段を観念により正当化している。

私たちは、悪を正当化するための観念という
とてつもない建造物を所持してしまったのです。
それこそが、前代未聞のことです。

悪は悪です。
悪が善をもたらすことはできません。

戦争が平和の手段であるなどということは無いのです。

2017.01.06

努力なしに聞く

The Book of Life
1/6のテーマは
Listening Without Effort

以下、天野の訳です。

—————-

私の話を聞いていますね。

注意深く聞こうと努力するのではなくて、ただ聞いていますね。

もし、あなたが聞いていることの中に真実があれば、
あなたの中で、目覚ましい変化が生じていることに気づかれるでしょう。
あなたが考えていた通りのものでも、期待した通りでもない変化が。

それは変容であり、完全な革命です。
そこには真実のみが超然としてあり、心が造り出したものはありません。

よろしいですか。
全てのことに対して、このようにお聞きになっていただきたいのです。
私の話を聞くときだけではなく、
他の方の話を聞くときにも、
鳥のさえずりにも、
列車の汽笛にも、
バスが通り過ぎる騒音にも。

あらゆる物事に耳を開けば、開くほど、
静寂はより一層大きくなります。
その静寂はもはや騒音で壊されることはないのです。
あなたが何かに抵抗しようとしている時にだけ、
あなたと、あなたが聞きたくないものとの間に垣根を築こうとしている時にだけ、
ただその時にだけ、葛藤があるのです。

2016.12.23

瞑想

The Book of Life
12/23のテーマは
Meditation

以下、天野の訳です。
—————-

瞑想ということについて、
一歩ずつその中へ足を踏み入れていきましょう。

話が終わるまで、じっと待っていないでください。
瞑想とはこうするものだという徹底解説など、
期待して待っていなくてよいのです。
今、私たちがこうしてしていることそのものが
瞑想の一部なのですから。

まず「思考する人」に気づきます。
思考と、それを考えている人の間にある矛盾を解決しようとか、
統合しようとしたりしないでください。
「思考する人」とは、
(実際にそこにいる誰かではなく)心の上での存在です。
「思考する人」は、(ただ純粋に経験するのではなく)
経験を知識として溜め込みます。

故に、「思考する人」とは、時間に縛られた
心の中にいる「中心」的な存在なのです。
絶え間ない外界の変化に影響されて、
この時間に縛られた「中心」(=「思考する人」)が出来上がります。
私たちは、この「中心」を通じて、見て、聞いて、経験しているのです。

この「中心」の構造や、正体を見抜かない限り、常に葛藤があり、
葛藤の渦中にある心は、
瞑想の深さや美しさに目覚めることはとうてい不可能です。

瞑想のただなかでは、どんな思考者も存在し得ません。
瞑想とは、思考が完全に止むことを意味しています。
結果を得るために次々に何かをしようと働いている
思考が停止するのです。

瞑想は、何かを達成しようとすることとは何の関係もありません。
特別な呼吸法などでもないし、
鼻先を見つめることでも、
何かの術を使う力を感得することでもありませんし、
その他諸々の稚拙なたわごとでもありません。

瞑想は、生活とは別の何かではありません。
車の運転をしているとき、
バスにゆられて座っているとき、
何の目的ももたずに会話しているとき、
森の中を一人で歩いているとき、
風に運ばれていく蝶を眺めているとき、
何を選ぶということもなく、
それら全てにただ気づいていることが、
瞑想の一部なのです。

2016.11.10

日々死んでゆく心

The Book of Life
11/10のテーマは
Die Every Day

以下、天野の訳です。
—————-

年齢とは何でしょうか。

あなたが生きて来た年数のことですか。
それも年齢の一つですね。
いついつの年に生まれ、
今、15歳、40歳、あるいは60歳だと。

体は年老いていきます。
そして心もまた年老いていきます。
幾多の経験という重荷を背負い、
苦悩や、生活の疲れという苦渋を負っているために。
そうした心は、真実に目を見開くことが決してできないでしょう。

若く、生き生きとした、無垢な心のみが、真実と巡り会うことができます。
心の穢れの無さは、年齢とは関係のないことです。

純心無垢なのは子どもだけのことではなくて、
経験の残りかすを溜め込むこと無く、
「ただ経験している」心もまた、純真なのです。

もしかしたら子どもであっても無垢とは限らないかもしれませんね。

心は必ず、何らかの経験をします。
それは避けられないことです。
そして、心は必ず、全てのことに反応します。

川が流れている、病んだ動物がいる、
亡くなって火葬場へと運ばれていく肉体がある、
重荷を背負いながら道を歩いていく貧しい村人がいる、
生活の辛酸や悲惨さがある。
そうしたものに反応しないのなら、心は既に死んでいます。

しかし、経験に束縛されることなく反応することは、
真に可能なことです。
長年の習慣が、経験の蓄積が、記憶の遺骸が
心を老いさせるのです。

日々死ぬ心。
毎日、昨日の記憶に全て別れをつげ、死す心、
毎日、過去の楽しみや悲しみの全てとお別れし、死す心。

そんな心は、生き生きとして、純粋無垢で、年老いることがありません。
10歳であろうと60歳であろうと関係ありません、
このような心の純真さを持たずして、神性と出会うことはないでしょう。

2016.10.17

いつも新しい心

The Book of Life
10/17のテーマは
A Fresh Mind

以下、天野の訳です。
—————-

何かのために努力を重ねること
何かになろうと努力を積み上げること、
そのことが精神の廃退と老化の真の原因です。
なんと早く老いていくことかご覧なさい。
60を過ぎた人たちのことだけではなく、
若い人々もそうです。
精神的に、なんとこんなに老いてしまっているのでしょうか。
ほんのわずかの人たちのみが、
若い精神の状態を保ち、あるいは維持しています。
「若い」と言っているのは、
単に、ワクワクたい、楽しい時を過ごしたいという心のことではなく、
汚染されていない無垢な心のことです。
人生の災難や事件によって、引き裂かれ、くるまれ、ねじ曲げられることのない心、
苦闘、悲しみ、絶え間ない努力により、ぼろぼろになることのない心のことです。
そうですとも、若い心を保つことは必要にして不可欠です。
老いた心は記憶に対する恐怖でいっぱいになっていて、
生きていません、熱意というものがありません。
はじめから全部決まったとおりの、いわば死んだ心です。
はじめから決まっていて、
その決まったものに従って動いている心は死んでいるのです。
ところが、若い心は次々に新たな決断をしていきます。
そのいつも新しい心は、
無数の記憶から生じる重荷を負うことがありません。
苦しみの影を全く持つことがない心は、
たとえ悲しみの淵を歩んだとしても、
傷つくということがありません。

そんな若い精神が必要なんだと言いたいのではありません。
若い心は、努力や犠牲によって追求できるものではないからです。
どんなお金でも買えない、売ったり買ったりできるものではもちろんありません。
ところがもし、若い精神の大切さに、その欠かせない尊さに目が開き、
そのありのままの真実に気づいたとすれば、
そこに何か別のことがおこるのです。

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