気功のひろば

ブログ

2018.02.13

日々の新生に気づく

The Book of Life
2/13のテーマは、
Meeting Life Anew

以下、天野の訳です。

—————-
私たちのほとんどが熱心に受け容れ、
当然のように思っていること、
その一つは、信念の問題ではないかと私は思います。

信念を非難しているのではありません。
私たちがしようとしているのは、
「なぜ信念を受け容れるのか」を見いだそうとすることです。
もしその動機、受容する原因を理解できれば、
なぜそうするのかが判るだけではなく、
おそらく、信念から自由になることができるでしょう。

政治的な信念、宗教上の信仰、国家やその他様々なタイプの信念が
いかに人々を隔てさせ、争い、混乱、敵対を造り出してきたか、
誰もが知っているでしょう。
そのことは明白な事実です。

なのに、いまだに、私たちはそれらを諦めて手放そうとしません。
ヒンドゥーの信仰があり、キリストの信仰があり、仏教徒があり、
数限りない宗派や国々の信念、様々な政治的イデオロギーがあり、
みんなお互いに争い合い、あるものから別のものへと取り替えようとしています。

信念や信仰が人々を分け隔て、
お互いに相容れない世界を造り出しています。
これは、明らかですね。

では、信念や信仰なしに生きることは可能でしょうか。
信念や信仰との関係性の中で、自分自身についてよく調べる。
それができる時にのみ、可能となるでしょう。

この世で、信念や信仰無しに生きることはできますか。
信念を変えるのでも、ある信念を他の信念に変えるのでもなく。
完全に全ての信念から自由であり、
毎瞬間、新たに生きていることに気づくことが可能でしょうか。

瞬間瞬間、全てに新しいこととして出会う、
その能力を持つこと。
全ての条件付け、過去における反応もそこにはありません。
だから、自分というものと、そのままの自分との間の、
壁となり障害として働く累々積々とした影響もそこにはないのです。

結局のところ、これが真実なのです。

2018.02.07

愛がある時、自我はない

The Book of Life
2/7のテーマは、
When There Is Love,Self Is Not

以下、天野の訳です。

—————

真実、真理というものは、頭で認識するものではありません。

真理が訪れるためには、
信念、知識、経験、美徳、徳の追求
・・それは徳があることとは別のことですが、
これら全てが無くならなければなりません。

徳を追求しようと意識している高潔な人は、
決して、真実に出会う事はできないでしょう。
彼はとても礼儀正しいきちんとした人であるかもしれませんが、
真実の人、真実を悟った人とは全く違います。

真実は、その人に自ずと訪れたのです。
高潔な人は、正しくあろうとする人です。
正しくあろうとする人は、決して、何が真実かを知ることはできません。
彼にとっての徳とは、自我を覆い包むものであって、自我を強化するものです。
なぜなら、彼は徳を追い求めているからです。

彼が、「私は貪欲であってはならない」と言うのなら、
(無欲たらんとしながら)「貪欲でない」という彼の状態が、
自我を強化しているのです。

貧しくあることが、なぜそれほどまでに重要なのか。
その答えがここにあります。
この世の具体的な「もの」だけではなく、
信念や知識に関してもです。

現世的な「もの」を沢山持っていても、
知識や信念を沢山持っていても、
富める人は、闇以外の何ものも決して知ることはなく、
あらゆる害悪や苦悩の只中にあることになるでしょう。

しかし、
あなたそして私が、個々の一人として、
自我のふるまいの全てに気づくことができれば、
私たちは、愛とは何かを知ることになるでしょう。
これこそが、世の中を変え得る唯一の変容であることは、確かです。

愛は、自我ではありません。
自我は、愛を理解することはできません。
「私は愛している」と言ったとしても、
そのとたん、話しているその時、
そのことを経験しているその時に、
愛はそこにありません。

そして、あなたが愛を知った時、自我はそこにありません。
愛がある時、自我はないのです。

2017.12.16

本当の信仰

The Book of Life
12/16のテーマは
True Religion

以下、天野の訳です。

—————-

信仰とは何ですか。

信仰は、聖なる言葉を唱えることでも、
供養の形をなぞることでも、
他のどのような儀式でもありません。
ブリキの神像や、石の偶像を礼拝する中にも、
お寺や教会の中にも、
聖書やギータなどの聖典を読む中にも、
神や仏の名を繰り返し唱える中にも、
その他、人間によって造り出された
迷信の数々に従う中にも、信仰はありません。
それらは、信仰でも何でもありません。

信仰とは、
あなたが元々持っている純良なものに気づくことです。
そこには、川のような愛が生き生きとあふれていて、
とぎれることなくずっと働き続けています。
その流れの中に入ると、あなたはふと、
もはや何の詮索もない瞬間と出会うことになるでしょう。

そして、何かを見つけ、探そうとすることが止むと、
全く違った何かが始まります。

神を探し、真理を追求し、完璧な気持よさを求めることは、
生まれながらに持っている純良なものを引出すことでも、
謙虚さを深めることでもありません。
そうではなく、意識による発明品や幻惑するトリックの数々を
乗り越えた、向こうにある何かを求めていくのです。
その感覚を持ち続け、その中で生き、まさにそのものになる。
これが本当の信仰です。

自分で掘った小さな水たまりから抜け出て、
いのちの川の流れに飛び込むことだけが、道を開きます。
すると、その生命の潮流が、驚くような方法であなたを養うようになります。
なぜなら、あなた自身は何ひとつ自分の面倒をみなくてよくなるからです。

生命の潮流は、あなたをちょうどよいところへ運んでいきます。
あなたは「いのち」の一部なのですから。
そこにはもう、安心を確保しようという悩みはありません、
誰が何と言おうと、言うまいと、そうした問題は全くないのです。

生命の美しさとは、まさにこのことです。

2017.11.16

死の中に不死がある

The Book of Life
11/16のテーマは
In Death Is Immortality

以下、天野の訳です。

—————–

終りの中には、いつも新しい始まりがありますね。
ちがいますか。
死の中からのみ、新たな何かが生まれ出るのです。

私はあなたを安心させているのではありません。
これは信じるような何かでも、
そのことに対して考えをめぐらすことでも、
また、知的に検証して受け容れるような何かでもありません。
そんなことをしたら、ただ別の安心のよりどころを作り出すだけです。

それは、ちょうど今あなたが、
死後の再生を信じていたり、
(今の自分がそのまま)来世へ続いていると信じていたりすることと
何の変わりもありません。

しかし、現前にある事実は違います。
続いていくものは、生まれ変わることも再生することもありません。
ですから、日々死すことによって、再生があり、新生があります。
これが、不死ということです。

死の中に不死がある。
その死とは、あなたが恐れている死のことではありません。
過去において導き出された結論が死に、
記憶たちが死に、
経験たちが死ぬのです。

すなわち、これらは「私」という認識を作り上げてきたもの。
この「私」が、刻々と死ぬ中に、永遠があり、不死があり、
経験されるべきものがあります。
それらは、きっとそうなんだろうと思ったり、
こうなんですと教えてもらうようなことではありません。
それでは、転生や何かに関してあなたが今までやってきたことと同じです。

一瞬一瞬に終りがあり、新しい始まりがある。
もはや恐れはそこにはなく、あなたは未知に対して開かれています。
本当の真実とは、未知のものです。

死もまた、未知のものです。
しかし、
私たちは来世に続いていくのだとか、そうしたあらゆる馬鹿げた考えから、
死は美しいと讃えたり、何とすばらしいことだと言ったりすることには
何の真実もありません。
死を死そのものとして見ている、そこに本当の真実があります。
そう、終りとしてです。

終ることの中に、新しい始まりがあり、新生がある。
継続ではないのです。
継続するものは朽ちていきますね。
そして、自ら新生する力を持つものは永遠です。

2017.10.31

精神的な革命

The Book of Life
10/31のテーマは、
A Psychological Revolution

以下、天野の訳です。
—————-

思考する人と思考が、
観察する人と観察されるものとが、
ひとつになることは可能でしょうか。

あなたが、この問題を単なる軽いものととらえて、
あれこれ、うわべだけの説明を求めるのであれば、
決して気づくことはないでしょう。

間違いなく、これはあなた自身の問題です。
私のみの問題ではありません。
あなたは、この問題や世の中の諸問題について
私がどうとらえているかを聞くためにここにいるのではありません。
内部に生じているこの絶え間ない葛藤、とても破壊的で、退廃的な…
これはあなたの問題、そうではありませんか。

そしてまた、自らの根本的変化をもたらすことも、あなた自身の問題です。
政治、経済、官僚制の変化等の表面的な革命に満足などしないことも。

私や、私の生命観を理解しようとなどしないでください。
あなた自身を理解しようとするのです。
直面せざるを得ないあなた自身の問題があることを理解するのです。

それらを一緒に熟考することによって、
この対話の中で今まさにそのことをしているのですが、
よりはっきり、より明晰にそれを見ることを
お互いに助け合うことができるでしょう。

しかし、「はっきり見る」と、
言語的な範囲の理解をしただけでは不十分です。
それでは、創造的な精神的変化はもたらされません。
言葉を超えて、あらゆる象徴やその知覚を超えていかなければなりません。
それら全てを脇に置いて、中心の本題に至らなければなりません。

どうやって「私」を消し去るのか、
時間につながれ、一片の愛も、思いやりもない「私」を。

心が心そのものから分離していない時にだけ、「私」を超えていくことができます。
「思考する人と、思考」の非分離と同じように…。

思考する人と思考とが一つであるとき、
そのときにのみ静寂があります。

その静寂は、何のイメージを造り出すことも、さらなる経験を待ち望むこともありません。
その静寂の中では(経験する人と経験が一つであって)、今何かを経験しつつある経験者はいません。
そしてその時にのみ、創造的な働きを持つ心理的革命があるのです。

2017.10.19

つなぎ止められることも、とどまることもない心

The Book of Life
10/19のテーマは
A Mind Without Anchorage or Haven

以下、天野の訳です。

——————-
あなたには新しい精神が必要です。
時間から自由な心。
もはや時の隔たりや空間について考えることのない心。
何の限界もない心。
つなぎ止められることも、とどまることもない心。
神などというものを扱うためにだけではなく、
目の前にある生活の諸問題に対処するためにも
このような新しい精神が必要です。

つまり、重要なことは、
私たち一人一人が、そのような心を持つことができるかということです。
だんだんにではなく、努力錬成することもなくです。

なぜなら、心の修練も、開発も、プロセスも、必ず時間を伴うからです。
その新しい心は、即生じなければなりません。
時間を超える特性を持つのですから、今、変わらなければなりません。

生は、即ち死です。
死はあなたを待受けています。
生に抗することができるように、
死に抗することはできません。
そう。だから、新しい心を持つ。それは可能ですか。

何かを達成するのでもなく、
何かのゴールでもなく、
何かを目指すのでもなく、
何かに到達しようとするのでもなく。

それら全ては、時間と空間を必ず伴ってしまうのです。

私たちは、とても便利で、慰安的な、定型の思考パターンを持っています。
時を経て進歩していく。
時を経てそこへ到達する。
時を経て成し遂げる。
時を経て真理へと近づいていく。
それは私たちを欺く偽物の考えです。
全くの幻想です。
そうした意味で、時間は幻想なのです。

2017.08.28

努力とは「自然」から気をそらすこと

The Book of Life
8/28のテーマは
Effort is Distraction from What is

以下、天野の訳です。
—————–

「懸命に努力する」ことの問題について
私たちは理解しなければなりません。
努力ということの重大性にはっきり気づけば、
それを日々、行動へと転化していくことができます。

「努力」とは、あるがままの自然な状態から、
そうではない不自然な状態へ、
そうあるべき、そうなってしかるべき状態へ
変えようと苦闘することではないですか。

わたしたちは常に、そのままの状態から逃れようとし、
すっかり変貌させたり、修正しようとします。
真に満たされている人とは、
あるがままの自然を解し、当然のように尊重している人です。
真の満足は、いくばくか、または数多く所有することによってではなく、
そのままであること、その全き重要性にはっきり気づくことによってもたらされます。

(能動的に、気づこうとするのではなく)
受動的な気づきのみが、その真の意味を明らかにします。

私が今話しているのは、地球や建築に関わる現物的、身体的な努力奮闘や、
技術的な問題解決についてではなく、
精神的な努力奮闘についてです。
精神的な苦闘や諸問題は、常にこの物質世界や身体にも影を落とします。

あなたは、社会的な砦をとても注意深く構築するかもしれませんが、
精神の闇と努力奮闘について悟ることが無いかぎり、
そうしたものが、あなたがきめ細かに築き上げたものを覆すことは必定です。

努力とは、「そのままに自然であること」から気をそらすことです。
ありのままにあることを受け容れると、努力奮闘は止みます。

あるがままの状態を変えたい、
修正したいという欲求があるかぎりは、何の受容もありません。
(精神的な)努力奮闘は、破壊を指し示すものですが、
あるがままの自然を変えようとする欲求がある限りは、
どうしても存在してしまうのです。

2017.07.01

幸福か満足か

The Book of Life
7/1のテーマは
Happiness vs. Gratification

以下、天野の訳です。
—————-

私たちのほとんどが、求めているものは何ですか。
私たちひとりひとりは、何を欲しているのでしょうか。

この、休む間もない世の中では、ことさらに
皆が、何らかの平安や幸せや、避難場所を見つけようとしていますが、
いったい何を求め、何を見つけようとしているのですか。

それが判ることがとても大切なこと、
そうではありませんか。

おそらく大部分の人たちは、
何らかの幸せ、何らかの平安を探し求めています。
混乱と戦争、競争や紛争に苦しむ世の中で、
少しでも平安がありそうな避難場所を求めているのです。
これが大部分の人たちが望んでいること、私はそう思います。

だから、ある指導者からまた別の指導者へ、
ある宗教からまた別の宗教へ、
ある師からまた別の師へ、
(避難場所を)求めて、次々と、さまよい歩いていくのです。

つまり私たちは、幸福を探し求めているのでしょうか。
あるいは、私たちが求めているのはある種の満足で、
その欲求の充足を通じて幸せになれたらと思っているということですか。

幸福と満足は、違うものです。

幸福を追い求めることができますか。
おそらく満足は見つかるでしょう。
しかし幸福をみつけることはとうてい出来ません。

幸福は派生するものです。
(求めて得られるものではなく、)副産物なのです。

ですから、
頭や心に莫大な努力や注意、思考や配慮を強いるその前に、
私たちが探し求めているものは何なのか、
それは幸福なのか満足なのか、
はっきり見抜かなければなりません。
その必要が無いと、どうして言えるでしょうか。

2017.06.24

争いの本質的原因

The Book of Life
6/24のテーマは
The Central Cause of Conflict

以下、天野の訳です。
—————–

ただ願うだけで、平和が訪れるなどと考えないでください。
あなたは、日々様々なものと関わりながら、
意欲的に、何かを得ようと、
今生や来世の精神的な安全を願う生活をしていますね。
そのままでは、平和は来ないのです。

平和を望むのなら、
争いや、不幸の本質的な原因を
直覚し、消し去っていくのです。
平和のためにと、外のことばかり考えないようにしてください。

ご承知のように、私たちはたいがい無精です。
(直感的な感覚が)怠けすぎているので、
自らをピタッと把握することも、はっきり判ることもありません。

この無精さとは、まさしく独断的な心の現れです。
だから、誰かがこの問題を解決して、
私たちに平和を与えてくれるだろうと考えたり、
戦争を引き起こしているだろう
一握りの人々をやっつけてしまえ、などと考えてしまうのです。

もし、あなた一人が内に争いや葛藤を抱えているならば、
周囲にも、必ず、不可避的に、争いを造り出します。
自身の内に平和を築くことだけが、
世界全体に、平和をもたらすのです。
あなたが、世界そのものなのですから。

2017.05.23

自我から自由になる

The Book of Life
5/23のテーマは
Freedom from the Self

以下、天野の訳です。
—————–

心というものを、あらゆる色づけから自由にするには、
心のまるごと全部を、思考を働かせずに見る必要があります。

これは難しい問いかけではありません。
ご自身でやってみてください。そうすればわかるでしょう。

あなたは思考を働かせずに、何かを見たことがありますか。
聞いたことがありますか、そしてはっきり見たことがありますか、
思考が次々と反応して働き出さない状態でです。

あなたは、思考を働かせずに見ることなど不可能だと言うかもしれません。
何にも色づけされていない心など、ないとおっしゃるかもしれません。
もしそうなら、その時点ですでに、思考によって
自分を閉じ込めてしまっているのです。真実は、あなたが知らないものですから。

では、私は、(私の心の全部を思考を働かせずに)見ることができるでしょうか。
心が、自身によって色付けされていることに気づくことができるでしょうか。
私は、できると思います。

やってごらんなさい。
あなたは、あなたがヒンドゥ教徒だと気づくことができますか。
科学者だ、経済学者だ、そうしたあれこれにただ気づく。
それが良い、悪いという思考のつぶやきなしにです。
このように、「ただ見る」ということはとても難しいので、出来ないと言ってしまうのです。

何の思考の反応もなしに、あなたの存在の全てに、
あるがままに気づく時にのみ、あらゆる色づけ、条件付けは、
完全に、根こそぎ無くなります。

それこそがまさしく、自我からの本当の自由なのです。

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