気功のひろば
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ブログ

2022.04.06

健全で正常な反応

The Book of Life 4/6のテーマは

A Healthy, Normal Reaction

*クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 、365日分に編集された本「The Book of Life」を 一日分ずつ翻訳しています。
バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ  訳・天野泰司

 


欲というものは、どうしてこんなにも人生に大きな影響を与えるのでしょうか。
なぜなのか、見出さなければなりません。
正しいかもしれないし、正しくないかもしれませんが、私はこう思います。

欲が生じる、それは反応です。
健全で、正常な反応です。
欲が生じないのなら、死んでいるも同然です。
美しいものを見て、「わあ、これ欲しい!」と言います。
そうでなければ、生きていませんね。

しかし、絶え間なく欲を追求していると、苦痛が生じます。
楽しみだけではなく苦痛がある。それが問題なんです。
けれども、美しい女性がいて、その女性を見て、
「いや、美人ではない」などと否定するのは愚の骨頂です。
事実なのですから。
では、楽しみを持続させようとするものは何でしょうか。
明らかに、それは思考です。そのことについて考えているからです。

そのことを考える。すると、もはやその対象物との直接的な関係が失われています。
「欲」は、その直接的な関係だったのですが、
そのことについて考え、様々なイメージ、空想や思いを抱き、
思考が今、欲を次々と増殖させているのです。
思考がやってきてはあなたに言うでしょう。
「それはぜひとも手に入れなければ」「これは儲かる」
「これは重要だ」「重要ではない」
「これはあなたの人生に不可欠だ」「不可欠ではない」と。

しかしながら、
それを見て、欲が生じる。ただ、それで終わり。
こうして、思考が干渉することなく見ることも可能なのです。

2022.02.25

善には動機がない

The Book of Life 2/25のテーマは

Goodness Has No Motive

*クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 365日分に編集された本「The Book of Life」を 一日分ずつ、翻訳しています。バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ 訳 天野泰司

 

 


善良であろうとする動機を持てば、善良になるのでしょうか。
あるいは、善とは、
善良になりたいという、
動機にもとづいた衝動を全く欠いた何かなのでしょうか。
善は悪の反対、邪悪さの反対ですか。
全ての相反するものは、お互いの種子を自らの内に宿していのではありませんか。

貪欲と、理想的な無欲というものがあって、
無欲を追い求めて、無欲になろうとするのなら、
心は貪欲のままですね。何かになろうと欲しているのですから。
貪欲は、何かがしたい、欲しい、もっともっと、といったことをも意味します。
そして、貪欲だと割りに合わないことに気づくと、
無欲でありたいと欲するのです。
動機は何も変わっていません。
何かになりたい、何かを得たい。そう思っているのです。
「欲しないように」と、欲しているのであれば、
欲求や、欲望の根っこは、ずっとそこにあります。
ですから、善は悪の対極にあるものではなく、
全く異なった状態のものです。それはどのようなものでしょうか。

明らかに、善には動機がありません。
あらゆる動機は自我に基づいているからです。
それは、精神の自己中心的な働きです。
では、善とは何を意味するのですか。
確かに、善はあります。完全な注意がある時にのみ存在するのです。
注意には、動機がありません。
注意しようとする動機がある時には、注意は存在しますか。
善いことでも悪いことでも、何かを得たいという気持ちで注意を向けるのなら、
注意しているのではなく、注意散漫となり、注意が離れてしまっているのです。
善良であり得るのは、完全なる注意が働いている時だけで、
そこには、こうありたい、こうありたくないという努力が全く存在しないのです。

2022.01.28

自分を知る

The Book of Life 1/28のテーマは

Self-Knowing

*クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 365日分に編集された本「The Book of Life」を 一日分ずつ、翻訳しています。バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ 訳 天野泰司

 

 


自分を知ることがなければ、
何を行なったとしても、
瞑想状態へ至ることはできないでしょう。

「自分を知る」というのは、
全ての思考を知り、
全ての気分、言葉、感情を知ること、
つまり、心の活動を知ることであり、
崇高なる自己や、大いなる自己を知ることではありません。
そんなものはどこにもないのです。
高次の自己、アートマン(真我)などといっても、
依然として思考の範疇にとどまっているにすぎません。
思考は、あなたが条件づけされてきたことの結果であり、
記憶への応答です。歴史的な記憶でも、今のあなたの中の記憶でも同じです。
自分を知るということから生じるあの美しい徳質を
深く、ゆるぎないものとして確立しないまま、
ただ瞑想を試みても、完全なごまかしで、全く役に立ちません。

どうかお聞きください。これは真剣な方々にとって、とても重要なことなのです。
もしそうしなければ、あなたの瞑想と現実生活は、分離し、別れ別れになります。
とても大きく隔たってしまうので、いつまでも、生涯にわたって姿勢を整え瞑想したとしても、
鼻より先が見えることはないでしょう。
どんな姿勢をとろうと、何を行おうと、それには何の意味もないのです。

自分を知るとはどういうことなのか、わかることが大切です。
ただ気づくのです、何の選択をすることもなく。
束のような記憶を源としている「私」というものに、
何の解釈を加えることもなく、気づくのです。
心の動きを、ただ観察するのです。
でも、観察を通じて、何をすべきか、何をすべきでないか、何を達成するか
ということをただ積み重ねているのだとしたら、観察は妨げられてしまいます。
そんなことをすれば、自己の生き生きとした心の動きに終止符を打つことになるのです。
つまり、私は事実を、実際を、それそのものを観察し、見なければならないのです。
それに対して、記憶の応答である「こうしてはいけない」「こうしなければいけない」というような、
考えや論理でアプローチするなら、
純然たる、あるがままの動きが、妨げられ、ブロックされてしまいます。
ですから、そこには何の学びもないのです。

 

2021.12.29

静寂と出会う

The Book of Life 12/29のテーマは

Finding Silence

*クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 365日分に編集された本「The Book of Life」を 一日分ずつ、翻訳しています。バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ 訳 天野泰司



瞑想とは何か。

その探求の中に入っていき、思考の全プロセスを理解した時、
心は完全な静寂の中にあることに気づくでしょう。

この全面的な静寂の中では、
見張っている私も、観察している私もなく、経験している私もありません。
経験をかき集めている私が、
つまり自己中心的な心の活動が存在しないのです。

それが、サマディー(三昧の境地)だ、などと言わないでください。
全くナンセンスです。
あなたはそれを本で読んだだけで、自ら見つけたものではないからです。
言葉と「そのもの」との間には、莫大な隔たりがあります。
言葉は「そのもの」とは違う。
「扉」という言葉は、「扉そのもの」ではありません。

瞑想するということは、
自己中心的な心の活動を洗い清め、一掃していくことです。

深く深く瞑想をして、そこへ至った時、
静寂と出会い、完全に空っぽな状態を体験することになるでしょう。

心は、社会によって汚染されす、いかなるものにも影響されず、
欲望により生じる圧力にさらされることもないでしょう。

完全に一人であり、一人として存在し、無垢で、純真である。
そうすると、時間を超越し、永遠に続いていくものが
生じ得るようになるのです。
この、全てのプロセスが瞑想です。

2021.12.14

高くへ登るには、低いところから。

The Book of Life 12/14のテーマは

To Clime High One Must Begin Low

*クリシュナムルティの言葉を、
一日一ページ 365日分に編集された本「The Book of Life」を 一日分ずつ、翻訳しています。バックナンバーは同じカテゴリからお読みいただけます。

J.クリシュナムルティ 訳 天野泰司



宗教組織は、固定化し硬直化していきます。
ちょうど、その組織に属する人の思考が固まり、頑なになるのと同様に。  

生きることは、変化し続けること。
常に何かになりつつあること、
止むことのない変革です。

そして、組織は柔軟たり得ないので、
その変化の前に立ちはだかります。
組織を守ろうとして極めて保守的になるのです。

真実を探求することは、個々人が行うことで、
教会で集まって行うことではありません。
真実と共にあろうとするなら、
「ただひとり」であらなければなりません。

孤立という意味ではなく、
あらゆる影響や見解から自由であるということです。
組織化した思考は、必然的に
考えることそのものを妨げるようになります。

お気付きのように、
いわゆるスピリチュアルな組織の中では、
権力への欲望が尽きることはほとんどあり得ません。
あらゆる種類の、甘く、格調高く聞こえる言葉に
覆い隠されているかもしれませんが、
強欲による病毒、うぬぼれや敵対が助長され、蔓延し、
闘争、不寛容、派閥抗争、その他の醜い症状が
そこから増長していくのです。

見識の広い人たちが、20人から25人ぐらいの小さな集まりを持って、
会費も会員資格もなく、集まりやすい場所で、ていねいに落ち着いて
真実への歩みについて、話し合いをする方が賢明ではありませんか。

排他的な集まりになってしまうことがないように、
集まりのそれぞれの人が、時々促しあって、
また他の小さな集まりに参加するのも良いかもしれません。
そうすれば、広がりを持ち、窮屈で偏狭になることはないでしょう。

高いところへ登るには、低いところから始めなければなりません。

この小さな始まりから、もっと健全で幸せな世の中を創造する。
その手助けがあなたにできるかもしれません。

2021.10.03

思考の正体

The Book of Life
10/3のテーマは
The Very Nature of Thought

*クリシュナムルティの言葉を、一日一ページ
365日分に編集された本「The Book of Life」を
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J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


時間とは、思考です。

思考は、記憶によるプロセスで「時間」というものを生み出しているのです。
昨日、今日、明日という時間、何かを達成するための手段や、生活の方便として、
便宜的に使うものとしての時間、をです。
私たちにとって時間とは、何世代にも渡ってずっと、
とてつもなく重大なものであり続け、ある人生からまた別の人生へと引き継がれ、
脚色されながら日々が継続していくのです。

私たちの心が作り出したこの「時間」は、まさしく思考の本質そのもの。
「思考=時間」なのです。
何らかの「手段としての時間」が存在する限り、
心は、自らの枠を超えていくことはありません。
心がそれ自身を超えていく資質は、
時間というものから自由である「新しい心」にあります。

「時間」は、恐れを生じさせる要因です。
時計が刻む、秒、分、時、日、年といった物理的時間ではありません。
心理的な時間、内面的なプロセスとしての時間。
その内面的な時間が恐怖を引き起こすことは明らかです。

「時間=思考」、そして「時間=恐れ」なのです。
恐怖を育て、欲求不満や葛藤を引き起こします。
だから、真実を悟る即座の知覚、真実を見てとることは、時間を超越しているのです。

ですから、恐怖を理解するには、
距離、空間または「私」に気をつけるのと同様に、
心理的な「時間」に注意しなければなりません。

「私」は思考によって作られています。
昨日今日明日と、過去の記憶を使って現在を規定し、
未来の私を型にはめようとするのです。

私たちにとって恐怖は、とんでもなく重大な現実です。
恐怖に飲み込まれ、錯綜の中にある心は、決して自由たり得ません。
複雑に混乱した時間というものを理解しない限り、
恐怖ということの全貌を知り得ることは、決してありません。
恐怖と時間、やつらは一緒なのです。

2021.09.14

即座に悟ること

The Book of Life
9/14のテーマは
Immediate Perception

*クリシュナムルティの言葉を、一日一ページ
365日分に編集された本「The Book of Life」を
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訳 天野泰司


 

私にとっては、ただ知覚のみがあります。
即座にものごとの真偽を見て取る、直接の感覚です。

この即座に働く知覚は、何が偽りで何が真実かを見抜く、
そのための必要不可欠な要素なのです。

知性ではありません。
浅薄な知恵、知識、決まりごとなどを土台とした論理や思考ではないのです。

あなたも時々、何らかの真実を発見することがきっとあったでしょう。
例えば、「私は何ものにも属することなどできない」
というような真実に、瞬時に気づいたかもしれません。
これが知覚ということです。
分析も、理由づけも、いずれの思考の産物でもなく、真実を即座に見て取る。
理知的な思考が作り出すすべてのものは、知覚を遠ざける類のものです。

知覚は直感とは全く別物です。
直感という言葉は、饒舌かつ安易に用いられがちです。

私にとっては、この直接の知覚のみがあります。
理屈も、計算も、分析もないのです。
もちろん、分析の能力は必要ですし、
論理的に考えるために、よく働く鋭い知性は必要です。
しかし、理屈と分析ばかりに制限された心では、
何が真実かに気づくことは不可能です。

自らと深く対話すれば、
なぜ所属するのか、
なぜ自分を他にゆだねてしまっているのかがわかるでしょう。
さらに奥へと入っていけば、
自分が奴隷のようになっていること、
自由を切り捨てていること、
自分を他の何かにゆだねることで、
人間としての尊厳を失っていることに気づくでしょう。

そして、これら全てに即座に気づく時、あなたは自由です。
自由になるために努力は不要です。
すなわち、知覚こそが欠くことのできないものなのです。

 

 

2021.08.08

事実を悟る

The Book of Life
8/8のテーマは
Understand the Actual

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


これは、実はそんなに複雑ではないのです、
なかなか骨の折れることかもしれませんが。

お分かりのように、私たちは
現に生じていること、事実から始めてはいません。
今考えている、行っている、望んでいることではなくて
こうあるはずという予測、こうあるべきという理想、
そうした現実ではないものから始める、
そのために迷っているのです。

予測からではなく事実から始めるには、
細心の注意が必要です。
そして、どんな形の思考であっても、
事実に基づかないなら、心が乱れてしまいます。
だからこそ、私の中で、そして周囲で
実際に何が起こっているのかをはっきり見取ることが重要なのです。

もしクリスチャンなら、あなたはあるパターンに沿ったビジョンを思い描くでしょう。
ヒンズーでも、仏教徒でもムスリムでも、それぞれの異なったパターンに沿って思い描きます。
あなたが条件づけられた通りに、キリストやクリシュナを見ているのです。
どんな教育を受け、どんな文化の中で育ったかによって、ビジョンが決定していきます。
そのビションと、ある型の中で形作られた心と、どちらが現実のものですか。

ビジョンは、心の背景を形作っている特定の伝統の投影です。
投影されたビジョンではなく、こうした条件づけが現実で、事実なのです。
事実を理解することはとてもシンプルですが、
好き嫌いや、事実への非難、
事実に対する意見や評価によって、難しくなっているのです。
そうした様々な評価の形態から自由になることが、
事実を悟り、ありのままを悟るということなのです。

2021.07.06

とらわれのない幸せ

The Book of Life
7/6のテーマは
Happiness That Is Not of the Mind

J.クリシュナムルティ
訳 天野泰司


私たちは、洗練に洗練を重ね、精細に精細を重ね、
楽しみから、また他の楽しみへと動いていくかもしれませんが、
その中心には全て「私」というものがあります。

楽しみながら、より多くの幸せを望む私、
幸せを探し、求め、そうなりたいと望んでいる私、
もがいている私、
どんどん磨きがかかっていく「私」…。
しかし、決して終わることがないのです。

そうした、あらゆる細かな形として現れる「私」が終わりを告げる。
その時にのみ、追い求めても得られない至福の状態、
忘我の境地、苦痛を伴うことも腐敗することもない、本当の喜びがあるのです。

経験し、観察し、思考している「私」という思考を
心が超えていくと、
朽ちることのない幸福が生じ得ます。

その幸福は、普通に使う意味での永遠ではあり得ません。
ところが心は、何らかの「存続し持続するもの」、
永遠の幸福を追い求めます。
この永続への欲望こそが、腐敗です。

非難することも、正しいとか間違いだということもなく、
生きているという過程そのものを理解できた時、
あなたのものでも、私のものでもない、クリエイティブな幸せが訪れる、そう思うのです。

クリエイティブな幸せは、太陽の光のようなものです。
もし、きらめく太陽をあなたの中に留めたいと願うならば、
それはもはや、明るくて暖かい、生命を分け与えてくれる太陽ではありません。

同様に、苦しいから、誰かを亡くしたから、成功しなかったから
といった理由で幸福を望むのなら、
その幸せは、単なる反応でしかないのです。

しかし、心が「私」を超越できるならば、
心にとらわれることのない本当の幸せがそこにあるのです。

 

2021.06.07

純粋に聞くことは、自由に解き放つこと。

The Book of Life
6/7のテーマは
The Art of Listening Is the Art of Release

以下、天野の訳です。


誰かが語りかけ、あなたはそれを聞きます。
そのままに「ただ聞く」ということは、
自由に解き放つことです。

あなたがある事実を見て、
ただそのままに受け入れた時、
その事実を自由に解き放ったことになります。
事実として、ただそのままに聞き、
そのままに見ることは、
思考的な努力を伴わずに、とてつもなく大きな影響のあるものです。

例えば、「野心」ということを取り上げてみましょう。
それが何を成し、どんな影響を及ぼすかは、すでに十分に吟味してきました。
野心を持った心は、共感し、慈しみ、愛することを決して知ることはありません。
野心的な心は、それがスピリチュアルなものでも、外に現れたものでも、内に秘めたものであっても、無慈悲な心です。

あなたは今、聞きました。
聞いて、その聞いたことを翻訳して「野心で出来上がっているこの世の中でどうやって生きていけばよいのですか?」と言います。そうしたら、あなたは聞いていなかったのです。
あなたは応答しているのです。発言に、事実に反応したのです。
ですから、そのままに事実を見てていないということになります。

ただ単に事実を翻訳し、あるいは、事実に意見を付け加え、事実に対して
何らかの応答をしているのです。
すなわち、あなたは事実を見ていない…。
何の評価も、反応も、判断もしないという意味で聞くのなら、
確かにその時、
争いの元凶である「野望」を、打ち壊し、拭い去り、一掃するあのエネルギーが
その事実から生み出されるのです。




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